今どきの若者、そして痛恨の極み

日中、蝉が喧しいほど鳴き、時々近所の親子が網を持って獲りにきている。そんな7月の夕方、午後6時半、本学の校舎1階ラウンジに30人あまりの学生が集合していた。大学の自治会である学生会、短大の学友会の役員が中心になって、これに有志の学生たちが加わって学内美化の取り組み活動である。6時半とはいっても日差しが強く、じっとしていても汗が出てくる時間である。学内はもちろん、学校の回りも、ごみはさみにごみ袋を持っての清掃。なかには、足を負傷しているにもかかわらず松葉杖をついて清掃活動に参加している学生もいた。教職員が呼びかけたわけでもなく、まったく彼らが自主的に始めたもの。

そして8月上旬にはキャンパスにある池の美化に取り組むと聞いていた。この暑い中、本当にやるんだろうか。その日の朝9時半に30名ほどの男女学生が、それぞれにふさわしい服装で前回と同様1階ラウンジに集合していた。キャンパスにある池への挑戦。キャンパスにある池は、水が濁り、藻が繁茂して非常に汚くなっていた。先月末、暑い最中に用務員さんがポンプで水を掻い出したり、池にいる魚を別のところに移すなど奮闘してくださっていた。その後を引き継いでの挑戦。

彼らは、汚れた水の中に入り、泥をバケツなどで掻い出し水をすべて抜き、女子学生は池周辺の雑草を抜いたり、この暑い中で汗だくになっての奮闘。教職員3名も応援。熱中症にならないように、休憩をとっては水分を補給したりと、すべてが終了したのは午後の7時頃。体力、精神力、ボランティア精神には感嘆、驚嘆。こんな学生がいることは、頼もしい。

夏休みである。海外旅行へ行く者、海や山へ遊びに行く若者、自分の好きな物を買うためにアルバイトに精を出す者が多い中で、自らの学校の美化のために、この猛暑の中での自発的な行為には、まったく脱帽である。“今の若者は”と揶揄的によく言われるが、見直す以外のなにものでもない。こんな力を持っている彼らは、卒業後、社会に出ても十分やっていける。まさに生きる力である。

それから10日程したある日。夏の強い日差しが午後4時を回っても、まったく和らぎそうにもない時間、携帯電話の呼び出しが鳴った。大学からの発信であったので、何事かと思って、慌てて電話を取った。本学2年の男子学生が不慮の事故で病院に搬送されたと、警察から電話連絡があったとのこと。その後、死亡が確認された。野球部に所属して、グランドで汗を流し、充実した学生生活を過ごしていた彼である。そして、彼はこの一連のボランティアに参加していたのである。オープンキャンパスの日には、やって来た高校生の案内などをしてくれていた。8月下旬のオープンキャンパスにも協力してくれることになっていた。

青春を謳歌していた一人の学生が亡くなった。大学を卒業し、仕事に就き、やがて人の親となるであろう……これからいかようにも花が咲いたはずの人生である。突然に、それが断たれてしまった。いつも思うが、まじめな優しい心を持つ者が先に死ぬのはなぜなんだろう。全く残念でならない。仲間たちが、彼の分も頑張って欲しい。

ふと、中桐雅夫さんの詩に“心の優しいものが先に死ぬのはなぜか おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ……”とあるのを思い出した。

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箸の文化

食べ物をはさみ切る、引き裂く、持ち上げて口元へ運ぶ。時に、隣の人の器の物をもらったり、逆に相手の皿に移したり、子どもの口へ運ぶなど自由に移動させる。行儀は悪いが突き刺すこともある。複雑な手指の動きで、自由自在に操る。たった二本の棒だけで食べ物を美しく上手に口に運び、移動させることのできるお箸。日本の美とも言えよう。そこには、スプーンやフォークでは見られない美しさがある。

しかも、お盆になると、割り箸を野菜に刺し、キュウリの馬とナスの牛を作り、飾りまですることがある。これは、馬に「仏様に早く来てもらいたい」、牛には「仏様にのっそりゆっくり帰ってもらいたい」という思いを託しているのだそうだ。お盆は、死者や御先祖様と、のっそりゆっくり語り合いましょうということだろう。かくの如く、お箸と我々は、深くつながっていると言えよう。ところが、こんなにいつもお世話になっているにもかかわらず、“箸にも棒にもかからない”“箸の上げ下ろしにも嘴を入れる”“箸が転んでも笑う”とか、お箸は、あまりいい意味で使われていないのは、ちょっと気の毒な気がする。

私は西洋料理でも、箸が置いてあれば、これを使う。スパゲティでも箸の方が便利である。日本人の手先の器用さは幼い頃から親しんだ箸と無縁ではないのではないか。もっとも私は極め付きの不器用だが、箸の持ち方だけは正しく、かつ巧みに使えると自負している。これは、我が親に感謝している。

ところで、テレビの料理番組は当然として、ドラマやバラエティ番組で、食卓を囲んで、或いは食事のシーンがよく大写しになることがある。そのとき、意外と箸を正しく持てる人が少ない。あんな持ち方で、よく食べ物を落とさずに口元まで運べるなと感心する。

箸、そして箸づかいは、日本の美しい文化の一つと言えるのではないか。それだけに美しく持つことは大事であろう。その乱れは、我が国食生活の乱れとまでは言わないが、やはり箸の伝統美を大切にしていきたいものと思う。

大昔はともかくも、手掴みで食べる習慣のなかった我が国は、よく考えれば凄いことではないか。ヨーロッパではナイフ、スプーン、フォークであるが、これが登場するまでは手掴みだったのだろう。なぜなら金属器を使うよりも、二本の木を使用する方が古い筈である。まさに繊細巧緻な日本文化と言える。我がご先祖様は偉かった。しかも、最近では宇宙飛行士が宇宙での食事の際に食べ物をしっかりと持つことができるので、箸が活用されているそうである。

まさに日本人にとっては、幼児から天寿を全うするまで、何十年、朝から晩まで、お世話になっている道具だ。しかも、死んだら今度は、家族などが箸でお骨<コツ>を拾ってくれる。なんと、死んでからもお世話になるのである。まさか、スプーンやフォークで、という人はいないだろう。そんなことになれば、骨壺でなく骨カップである。“ふざけ過ぎだ。まじめに書け。”と言われそうなので、ここで箸を置こう。いや、筆を置こう。

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ツタンカーメン展

20世紀最大の発見とされる古代エジプト・ツタンカーメン王の宝物を披露する「ツタンカーメン展~黄金の秘宝と少年王の真実~」が大阪で開催されており、好評とのことで期間が、7月16日まで延長された。5月中旬に知人が行ったところ、待ち時間が平日にもかかわらず1時間だったとのこと。

今から半世紀前のs40年、高度成長期の真っ只中、ツタンカーメン展が開催されたのを思い出す。東京、京都、福岡の三会場で400万人が入場するなど未曾有の観客動員数で、日本中が熱狂の渦に巻き込まれた。私の新任教員時代で、教えていた定時制の生徒たちと見に行った。会場の京都市美術館はまさに満員の状況で、何時間だろうか、かなりの長い列を並んで待ったので、大変疲れた記憶がある。館内はごった返していたが、黄金のマスク、黄金張りのベッド、玉座に使われた椅子など、非常に見ごたえがあり、その見事さに驚いた。丁度、世界史を担当していたこともあって、大いに参考にもなった。ちなみに、その時の生徒の一人はのちに小学校の教員になった。

この王墓、英国のカーナーヴォンがエジプト滞在を機会に発掘を考え、考古学者カーターを協力者とした。テーベの「王家の谷」と言われる所を探したのである。第一次大戦で作業が中止され、1917年再開するものの1921年になっても何も出てこなかった。もう一年やってみることとなった6年目、思いもかけなかった場所から発見されたのである。殆ど盗掘を受けておらず、5千点余りの貴重な副葬品が出土した。カーターたちが埋葬室に到達するのに4年もの歳月を要し、その品物を完全に運び出すのに10年以上の歳月を費やしたと言う。王の遺体にかぶせられていた黄金のマスクをはじめとして副葬品がほぼ完全な形で出土するなど世界を驚かせた。この王の墓は、ファラオの墓としては大きい方ではないし、王は18歳という若さで世を去ったため、その治世に特筆すべき事業も行っていない。それでも、これだけの物が出てきたのである。ということは、大ピラミッドの墓室には、どれほどのファラオの富がおさめられていたか想像を絶する。

古来、墓所は盗掘の対象となっていた。古くはBC1100にテーベの政府は組織的に王墓を襲う盗掘団を摘発している。パピルスに書かれた裁判記録が残されており、多数の墓泥棒が告訴されているのである。一方では、墓には高価な副葬品があるということは、口伝えに世代から世代へと伝わっているとともに、財宝が見つかる場所の正確なリスト、宝を我が物とするための魔術的な手続き等が記されている本が実在していた。あまりにも盗掘者が多かったので、エジプトでは課税の対象にまでなった。

ところで、カーナーヴォンが墓の公開後に突然死亡し(蚊に刺されたためと言われている)、それから6ヵ月後に彼の弟が死に、カーナーヴォンの看護師も死んでしまった。さらに、ミイラのレントゲンを撮った人が死亡し、著名な考古学者が自殺してしまうなど、発掘関係者が次々と不慮の死を遂げたのである。墓の入口には「王を妨げるものに、死の翼ふれるべし」と記してあったことからも、ファラオの呪いなどと騒がれた。結局、発掘関係者の多くが7年以内に死んでしまった。しかし、肝心のカーターは、その後もずっと生き、亡くなったのは発掘後16年である。

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カルガモはどこへ行く?

5月中旬、本学の中庭にある小さな池の真ん中に、ほんの小さな島がある。そこでカモが卵を抱いていた。どこからやって来るのか不思議ではある。普段は、居ないのにこの季節になるとやって来て卵を抱いている。ここ3年連続で来ている。顔を見ても、いつも来ているお馴染みさんなのかどうか分からない。それとも毎回、違う鳥が仲間からあそこは産み易いと教えてもらってきているのだろうか。

一昨年は、うまくかえって可愛いヒナが親の後ろについて泳いでいた。去年も同じ頃に卵を産んでいた。ところが、去年の親鳥は薄情で、卵を産んだのはいいが、そのままどこかへ行ってしまった。卵を抱き続けているのも、ええ加減いやになったのか、もともと遊び好きな親だったのか、どこかへぶらっと出かけていなくなった。卵だけが無惨に残っていた。完全な育児放棄、いや卵からヒナにかえっていないのだからなんと言ったらいいのだろうか。卵放棄? ひょっとしたら、一部の人間の親を真似たのかも。なかにはヒナを虐待する親もいるようである。鳥も人間並みになってきたのか。

今年の親鳥は健気に抱いていた。そして先月、9羽のヒナが生まれた。奇しくも、我々が気づいたのは一昨年も、今年も5月21日。池の中には、大きな真鯉や小さな鯉が何匹かゆったりと尾ひれを揺らして泳いでいる。その上を生まれたばかりの子ガモが、小さな足を慌ただしく動かし、水を掻いて親の後ろに必死でくっついていた。水面をところ狭しと元気に泳ぎ、時に潜水も披露。先生に引率されて東大阪大学附属幼稚園の園児、近くの保育園の子どもたちがやってきて、親鳥の傍を素早い動きで付いて廻るヒナを見て「カワイイ、カワイイ」と歓声を上げて大騒ぎしていた。

ところが、翌日の昼には居なくなっていた。朝には居たのを目撃している人がいる。親が一列か、二列に並ばせて、校庭を横切って、どこかへ引っ越したのである。一昨年も同様。まったく不思議である。以前に何羽かのカモが近くの川に居たのを見たことがあるので、そこへ連れて行ったのだろうか。どのようにして移動するのだろう。途中、車も通っており、そこを横断しているはずである。防犯ビデオならぬ“カモビデオ”をセットして、その動静、行方を知りたい気持ちだ。引っ越し先で、無事に親子水入らずで過ごしているのだろうか。いや、水はいるが。

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「窮める」に挑んだ“元祖・安打製造機”

先日、「敗れざる者たち」という本をあらためて読んだ。初めて読んだのは、この本が発行されたs51年である。著者・沢木耕太郎氏の20代の作品で、ノンフィション、ルポルタージュの分野に新しい視点を持ち込むなど、凄い書き手が登場したなと思ったのを覚えている。これまで、何度も読み返している。

「三人の三塁手」「長距離ランナーの遺書」「さらば宝石」等、それぞれが読む者を引きつける素晴らしい作品である。ことに「さらば宝石」は、そこに書かれているのが誰なのか、興味深々だった。その一編の書き出しはこうである。

“ひとつの噂がどこからともなくきこえてきた。……。噂の主人公は、プロ野球の元選手だった。E…という。彼は戦後日本のプロ野球が生んだ名選手のひとりである。川上哲治、山内一弘に次いで史上三番目に二千本安打を記録した。……。そういえば、Eほどの選手がいつ引退したのかも記憶にないのは奇妙なことだった。”と。私はぐんぐん引き込まれ、このEとは誰なのか、引退しているプロ野球選手の顔を何人も思い浮かべつつ懸命になって読んだ。まるで推理小説にのめり込んだようでもあった。

“バッティングとは、…Eにとっては「窮める」べき目的そのものだった。”“Eはいまだに「さらば」といえないでいる。いつになったら断念できるのか、いったいダイヤモンドに何を忘れてきたというのだ。2314本にたった15本の安打を加えれば、終身打率が3割に達する。忘れてきたのは15本のヒットだったのか。あるいは川上の残した2351という記録への37本のヒットだったのだろうか。……。”そして文末になって、“彼が必死に求めているのは、ヒット中のヒット、完璧なヒットという幻なのかもしれない。必死に走り続けていたE-榎本喜八の姿が…”と、実名が登場する。あっ、Eとは、あの榎本選手なのか!

早実高から毎日オリオンズに入団し、開幕戦から先発出場して新人王になるなど、高卒ルーキーの野手として大活躍。今はない大毎(現ロッテ)のミサイル打線の中心として、山内一弘、田宮謙次郎とともに活躍。打率ランキングの上位3位をこの3人が占めたこともあった。首位打者にも二度なっている。安打製造機とも言われ、名人技を窮めるべくバッティングに挑んだ。それだけの選手なのに、引退後は指導者にも解説者にもならず、その動向が消えてしまっていた。

ライバル達が「打席で殺気を感じた」と。全盛期には、相手投手をして「剣豪のようなどっしりとした構え」「近づくと切られるような殺気があった」と言わしめた。また、「試合中、素振りの音がスタンド上段まで聞こえた」「ボールとバットがすれると焦げ臭さが漂った」と言われる伝説まであった。打撃の天才と称される一方、ベンチで座禅を組んだり独特の野球観と奇抜な行動でも知られたそうだ。当の選手本人は「投手の動きやボールがスローモーションのように見えた」と語っていた。

その榎本選手が、3月末に亡くなったことを新聞が、かなり大きく報じていた。そこで、「さらば宝石」を改めて読んだ次第である。

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ブルートレインのラストラン

寝台特急「日本海」(大阪―青森)の定期運行最終便が先月16日、JR大阪駅を出発し、関西発着のブルートレインが姿を消した。青色の客車がゆっくりホームを離れると、別れを惜しむファン約2000人が「ありがとう」と拍手で送り出したと報道していた。2月16日に発売された最終便の寝台券310枚は15秒で完売したという。いつも不思議に思うのだが、普段乗ったこともない人が、これが最終だとなると客が殺到する。百貨店やスーパーの閉店の際も同様の現象がよく起こっている。もっともこちらの方は、値段が安くなるからだろうが。

国鉄時代から親しまれた関西発着のブルートレインは、新幹線や高速道路の充実などによる乗客の減少、そして車体の老朽化により姿を消してしまった。この「日本海」は1950年に急行として運行を始め、68年に寝台特急になった。一時は1日2往復していたが、利用客の減少で廃止が決まり、今後は、年末年始などの臨時列車となる。

夜行列車「きたぐに」(大阪―新潟)も同じく16日発の列車が定期のラストラン。午後11時27分、下り最終便がJR大阪駅を出発した。青い客車を機関車が引くブルートレインで、残るのは「北斗星」(上野―札幌)と「あけぼの」(上野―青森)2列車となったそうである。

人影もまばらな夜のホームに静かに停まっている青色客車には、なんとも言えぬ風情があった。夜行寝台の先には故郷があり、そこには待っている人がいる。列車は半世紀近く走り続け、その間、多くの人々に喜びを与えてきた。そしてときに悲しみも。ホームで、或いはテレビでそれを眺め、昔を思い出し、涙を流した人もいたと思う。

私自身、若い頃、東京へ行くのに、夜行急行「銀河」に何度か乗ったことがある。うっすら明けてかけてきた東京、そのベールを剥ぐようにホームに列車が滑り込んで行く。この列車も、とっくの昔に無くなった。「日本海」ではないが、寝台列車に乗ったこともある。深夜を走る列車の固い座席でうとうとしている時、ベッドに横たわっている時、レールの繋ぎ目からだろうか一定のリズムで響いてくる振動。なんとも郷愁が感じられた。

昨年3月には、上野~金沢間を半世紀以上にわたり走ってきたJRの寝台特急(ブルートレイン)「北陸」と夜行急行「能登」がダイヤ改正で廃止となり、半世紀あまりの歴史に幕を閉じた。こちらの方は懐かしいボンネット型で、その時も、金沢駅のホームには、最後の姿を見んものとカメラを持った人たちがホームにあふれ、別れを惜しんでいた。

車体を撮影する鉄道ファン。田園を走る列車、鉄橋を渡る列車、そして今回のようなラストラン。時々、線路内に立ち入ったりして問題を起こしていることもあるが、彼らを「撮り鉄」と言うらしい。この「撮り鉄」、小学生から、かなりの年配の人まで様々であるが、テレビのニュースで見る限りは、なぜか男性ばかり。我が家の近くを走っている路面電車を撮影している人も多い。ことに日曜などは。ここでも男性ばかり見かける。女性もいるのだろうが、圧倒的に男性である。男性の方が、ロマンを求めるのだろうか。それだけ男性は傷つき易いということ???

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うまく飛び立てるか

海外旅行が盛んだというのに、我が国の航空業界は大変である。航空会社と言えば、学生の最も希望する企業の一つであった。ことに鶴のマークの日本航空は憧れの会社であった。ところが2年前、経営破綻。なんとか苦境は脱したとはいうもののまだまだ道半ば。再建への道筋が見えてきたのか、トップが交代した。企業再生支援機構からの出資金、金融機関からの巨額の資金支援、そして1万6千人以上の人員削減、不採算路線からの撤退などが功を奏したのであろう。さて、これから実力が試されよう。新しい社長は、これまでと違ってパイロット出身である。パイロット歴35年という異色の経歴である。

それより、私が“えっ”と思ったのは、この人が、かつての俳優・片岡千恵蔵のご子息であることだ。子どもの頃、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、大友柳太朗に胸をときめかせたものだ。中でも市川右太衛門、片岡千恵蔵は特別であり、主役中の主役で、ともに『御大』と言われていた大物だった。別にフアンでもないが、市川右太衛門の旗本退屈男、片岡千恵蔵の豪快な剣さばき、そして現代物では七つの顔を持つ多羅尾伴内。私と同じような年齢の方には、懐かしい人たち。東映チャンバラ映画を見て育った私には忘れられない俳優である。ついでに、前者のご子息は言わずと知れた北大路欣也。

片岡千恵蔵は時代劇のスターであった。さまざまな時代劇映画に出演。東映時代劇全盛時代ではなかったかと思う。桜吹雪の中で片肌脱いで鮮やかな刺青に名タンカの『いれずみ判官』の遠山金四郎、『大菩薩峠』の机竜之介は当たり役であった。ぶつぶつと呟くような含み声の独特の台詞回し、そして最後に鮮やかに大見得を切るのである。

現代劇では、『七つの顔』で拳銃をぶっ放す多羅尾伴内を演じていた。ことに変装の名人ということで「ある時は…。またある時は…、しかしその実態は、…」というクライマックスの決め言葉は、一世を風靡した。同級生で、このセリフを真似る者もいた。数々のアクションものにも出演していた。

日本映画黄金期の顔であり、氏は年間10本の映画に出演。まさに日本映画がピークの時で、年間の総入場者数が11億人を超えていて、町の至る所に映画館があった。その後は中村錦之助、大川橋蔵に主役の座を渡していく。当時の時代劇スターには、東千代介、月形龍之介、千原しのぶ、田代百合子、高千穂ひづる、さらにお姫様役に大川恵子、桜町弘子などがいた。ことに女優さんについては、子どもの目から見ても、きれいな人だなという記憶がある。一年間に国民一人当たりの入場者回数が11~12回という桁外れの時代、我が家から歩いて2分のところにも映画館があり、10分まで広げると6館ばかりあった。しかし、それもはるか昔にすべて無くなった。

さて、パイロットから経営トップへというのは日本航空業界では初めてのようである。映画のように難問をバッタバッタと解決し、軌道に乗せられるかどうかである。

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こども応援ひろば2011パートⅡ

1月21日(土)、北京オリンピック銅メダリストの朝原宣治さんを迎え、「あきらめなければ夢は叶う」をテーマに話して頂いた。

さて、会場には一般の方、学生たち。前半20分程は、朝原さんのDVD、続いて陸上競技でのさまざまな経験、そこから学んだことを話された。

北京オリンピック400mリレーのメンバーは最高であった。バトンを引き継ぐ時のタイミング、その一瞬の大切さ、力を一つにして戦うことは非常に難しい。アンカーの朝原さんは最年長で、正真正銘、これが最後の試合。バトンを渡される瞬間が最も大事な時であり、スピードが落ちないようにバトンを渡し、受け取る。バトンを受け取った瞬間、“一挙に走ってしまえ”である。ある意味で不思議な空間。何も考えずに走っていた。しかし、後でビデオを見ると必死の顔で走っている自分がいた。

中学ではハンドボールで全国大会に出場し、高校からは陸上競技で、もともとは走り幅跳びをしていたが、走ることに転向した。もっと強くなりたい、学びたい、自分を高めたいという思いが強く、外で出会った色々な指導者から多くのことを学んだ。

強い選手になるためには、なぜこの試合に向かっていくのかという目的の明確化、モチベーションの確保、冷静な現状の把握、現状と目標の差、柔軟な思考などが必要であるなどと話された。そして、これからの陸上競技活性化のため2010年に次世代育成を目的として陸上競技クラブ「NOBY&F CLUB」を設立されている。

学生の中には、DVDに感激して涙を流したという者もいた。オリンピック選手を間近に見られてよかったなどという人たちもいた。会場からも、学生や一般の方から質問が飛び出し、活気もあった。会場にいたすべての人達に、刺激を与えたことと思う。

終了後は、地元の方が控え室に来られたり、顧問に連れられて本学の陸上部の学生たちがやって来て、しばし朝原さんと歓談。練習をしている時はつらいこともあるが、頑張れという激励をもらったり、色々なアドバイスをもらっていた。

考えて見れば、人類の歴史は“不可能を可能にする”ことによって発展してきた。それは、すべての分野においてである。そして、今日のテーマ「あきらめなければ夢は叶う」は、スポーツにおける、まさにこれを実践したものであろう。

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年末の集い

昨年の11月末、私が新任教員として赴任した学校の地歴部が同窓会を開いてくれた。4年程前に岸和田で初めて開いて以来である。出席者は、最初に担当した生徒から4、5歳年下まで14名。そのうち2名が旅行業務に携わっている関係からバスツアーとなった。堺駅にやって来たのは30人は乗れるバス。小さなバスと思っていたから驚いた。なかには卒業後、初めて見る顔も。45年振りである。大学で教鞭をとっている先輩の地理の先生を中心に、まさに地理、歴史の旅だった。卒業生の中には大学で教職、フランス語を教えている者が2人。草津、水生植物園、石部宿場の里と、改めて勉強し直した

12月中旬の日曜日、最も親しかった卒業生のメンバーが難波に集合。このメンバーの中心はSであったが、彼は昨年4月に亡くなった。今回の参加者の年長者は、彼と同級であったM。集まることのできたのは7名。5名程は仕事や家庭の都合で急遽欠席となった。混雑する難波改札口に集合して新世界へ。今回の企画は中学校の校長をしているTと電気工事を仕事とするM。京都の病院に勤務する最年少のEは泊り明けで、眠いのを我慢しての参加。SとYは風雲急を告げる(?)大阪府庁と大阪府立高校に勤務、Mは家庭人。かつて一緒に旅行したり、我が家に泊りに来ていた連中である。

新世界は、旅行客などで活気づいていた。通天閣は35分待ちなので、その辺の散策へ。丁度、演劇がはねたところで、時代劇の扮装のままの俳優が客を劇場出口で見送っていた。慶沢園から茶臼山、一心寺へ。新世界へ戻り、夕食は串かつ。狭い2階へ上がって歓談。いつもならこの席には、必ずSがいた。皆が彼には一目置いていた。Mが黙祷しようかと言ったが、狭い座敷で、他の客もいるのでこれは遠慮。しかし、皆の思いは一緒。彼らは、S先輩が居たらなと思っている。私も、ここにSが居たらなと思ってしまう。

日が暮れたので、客も減ったであろう通天閣に登った。でもこの時間でも結構、客は居た。かつて来た時と、かなり変わっていた。戦前の通天閣付近のビデオやジオラマで大阪の街を再現している。驚いたのは通天閣から難波と天王寺2方向へ、ノンストップの無料マイクロバスが出ていることだった。通天閣の前に人が並んでいるので、なにかと思うと、バスを待っている人であった。我々も、難波までそのバスに乗車。車内には福岡からやって来た2人の若い女の子がいた。21時半頃の新幹線に乗って帰るとのこと。“たこ焼き”を食べる所を聞かれたので、その場所を教えた。

クリスマスイブの日、60歳を迎える、迎えた卒業生4人との宴。これも、毎年1回誘ってくれる。女性4人で大いに賑やか。いつも某ホテルのロビーで待ち合わせての会食。話が弾むこと弾むこと。1年1回ゆえ、溜まっているものを吐き出す感じ。しかし、楽しい。4人は同級生で、この春、幼稚園園長で定年となる女性に、主婦が3人。発展途上国を中心に海外旅行にしばしば行っている者がいて、皆が“羨ましい身分やなあ”と。また、今も社会人バレーを続けている者もいるなど感心する。高校生の時は、バレーボールで鍛えていた連中。当時は、屋外が普通であった。泥だらけになって、ボールを追っていた彼女たちである。

この2ヶ月に、3回の宴。最近では、いずれも間もなく高齢者ゆえ、互いに健康には気をつけようと言い合って別れる。でも、最も気をつけなければならないのは私である。いずれは杖をついて出かけるとしよう。

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破天荒な75年

奇抜な行動と過激な発言、歯に衣着せぬ毒舌、奔放すぎる藝で人気のあった立川談志さんが亡くなった。

この1月、『人生、成り行き~談志一代記~』を読んだのを思い出した。聞き手は作家の吉川潮氏。思わず笑ってしまった。そして、そこには立川談志という特異な人物の人生哲学が流れている。さまざまな挿話と多彩な騒動。本人が語る戦時中の少年時代に始まり、14歳の頃には落語家になろうと決めていたとのこと。少年時代、新宿の末広亭に通った。土間に六人掛け位の粗末な椅子が並んでいる中、一番前か二番目の列に座って食い入るように落語家を見ていたという。それにしても氏の記憶力には驚かされる。幼い頃の町の記憶、そして本を読むのが好きで、貸本屋から借りて読んだ本がいくつも出てくる。私も子どもの頃、近くの市場の中にあった貸本屋で、いつも借りていたが、書名などまったく覚えていない。

また、前座時代に“誰を目標にというのはなかった。最初から自分がうまいことに気付いた。だって文楽師匠よりうまいなって思ってたもん”と語る。真打ち昇進をめぐるごたごた、所々にテレビなどでよく知っている落語家が登場してくる。芸能人同士の逸話が面白い。落語協会脱退と立川流創設などなど、自らも積極的に波乱の人生。本人の語りで辿る破天荒な半生である。

芸能人野球大会が盛んで、氏が噺家の野球チームを作ったときの話も面白い。“曲芸のチームは弱い。球を持っている時は、「はっ」とか言って手先でくるくるやったりするんだ。でも見せ場は投げるまで。”球を扱うのは上手だが、投げたら下手だと。“つばめは一回デッドボールを受けて眼鏡割ってから、打つときも守るときもキャッチャーマスクしてましたな”と。本当かいな。

円楽(先代)さんについては、“あたくしに投げさせればひとつも打たせません”と円楽さんは言っていた。しかも“色が黒くて背が高いから妙に信憑性があったんです。それがやらせてみたら、どこに球が行くかわからないし、バット持たせてもかすりもしない。運動神経が先天的にない奴で、どうにもなんナイ”。氏のチームは野球試合で、勝った記憶がないと言う。しかも小学生に負けた時のことをこう書いている。“小学生に負けた時は、「もうよそうよ」って愚痴が出たね。また強い小学生チームなんだけど、手加減をしらないんだ。「ガキは洒落がわからないから始末が悪い」”と。

氏が選挙に立候補した時の話も楽しい。選挙カーでマイクを握って速射砲のように言葉がポンポン飛び出す。類まれな才能。自らの選挙戦、そして政界進出。依頼されての応援演説。鋭い指摘、舌鋒、ときにあっけに取られる。と同時にユーモアに溢れている。全編を通じて、氏の記憶力は、ただただ凄い。

毀誉褒貶がついて回った氏。でも、言いたいこと、やりたいことを貫いても、落語の世界で許されたことが不思議に思うとともに、生き抜くことの出来たのは、やはり卓越した力があったからだろう。そうでなかったら消えている。

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