大阪の作家・織田作之助

 昭和21年『世相』によって、戦後の流行作家となった「オダサク」の愛称で親しまれた織田作之助は、大正2(1913)年生まれで、今年が生誕100年になる。大阪市天王寺区生玉、木が生い茂り、坂の町でもある上町台地の一角に生まれている。25歳の頃、スタンダールの『赤と黒』に出会ったことがきっかけに、自分の生き方を書いてみようとし、これが自伝小説『雨』である。そして昭和15年『夫婦善哉』を世に送った。“メオトゼンザイ”、この言葉そのものが、大阪の匂いがしてくるではないか。あかんたれのボンボン育ちの男と、強気でしっかり者の女の物語である。映画では、森繁久彌と淡島千景が昭和初期の大阪を舞台に大店のドラ息子としっかり者の芸者の夫婦を演じた。実は、この作品のモデルは氏の姉夫婦であるとのこと。法善寺の側には、2つの椀に分けてよそわれたぜんざいを食べる店が、今も繁盛しており、大阪観光のスポットでもある。また、この『夫婦善哉』の中で、大坂千日前の自由軒のカレーを一躍有名にした。普通は白いご飯の上にカレーがかかっているのだが、ここのは最初から混ぜてあって、真ん中に生卵を落としてある。織田作は、毎日のように来てはカレーを食べ、『夫婦善哉』の構想も練ったという。ぜんざいも食べたことが何度かあるし、カレーは独特の風味がする。

 33歳で没した短い生涯を大阪にこだわり、大阪弁で庶民の暮らしや町の風俗を数多くの短編に描いている。まさに地べたから見た大阪である。ぼうぼうと伸ばした長髪で、身長が5尺8寸(約177㎝)というから、当時としては背が高く、いつも皮のジャンパーを着ていた。また時に和服の着流し、すりへった下駄を履いていたというから、かなり目立っていたと思われる。太宰治、坂口安吾と並んで戦後の無頼派を代表する作家であるが、この二人と比べると、なじみが薄い。大阪にこだわったことと、33歳と、その生涯があまりにも短すぎたからだろうか。その無頼ぶりは、いろいろなところに書かれているが、それが事実とすれば、破天荒な生き方を通り越して無茶苦茶としかいいようがない。学生の頃に喀血したが、病院に行かずに放置。覚醒剤の一種ヒロポン(当時は合法であった)を1日20本打ち、たばこは100本吸っている。その生涯は、思い通りに生きたという意味では華やかとも言えるが、儚い。

 昭和22年、今宮戎が賑わっている1月10日の夜、亡くなっている。肺結核による大量出血のための窒息死である。亡くなるまでのわずか8年間に300もの小説や評論を残した。その日の朝、「今が死に花や、花は桜木、男は織田作。俺も30歳まで生きられるとは思わんかったや」と呟き、臨終に際し「十日戎の日に死ねるとは運がええ」と喜んだといわれる。亡くなるときも大阪にこだわっている。

 織田作之助の墓と刻まれた裏に、“…惜シムベシ鬼才ハ文学ヲ熱愛スルノ余リ虚弱ノ己ガ肉体ヲ忘レタ…ロマンヲ発見シタノ傳説的ナ一語ヲ遺シ……夭折シタ”と大阪の作家藤沢桓夫が記している。この藤沢桓夫氏は、我が家の近くに住んでおられた。背の高いすらっとした方だった。氏の家は大変広く、庭には大きな木が何本も聳えており、夏になると蝉がいっぱい止まっていたので、塀の外から網で獲ったりしたものである。その屋敷も、今は殆どなくなってしまった。

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神のみぞ知る

 私は学校を卒業した昭和40年4月、新任教員として大阪南部の府立高校に赴任した。その時の校長さんが、昨年、100歳になられた。定年退職後、和歌山に住んでおられ、私が平成11年、その高校に再び赴任することになった折に挨拶に伺った。先生が退職されてから約30年後に、私が同高校に再び赴任したことになる。そういったことから和歌山のお家を訪ねたり、千里に住まわれていた際も、そして先般、横浜にお住まいの先生を訪ねた。

室内で車椅子を使用されていたが、お会いするなり、大変懐かしそうに話しかけられ、2時間の殆どを先生がしゃべられた。校長として在職しておられたときの教職員の名前も覚えておられ、それ以前の私が知らないことも話された。お菓子も、少し不自由ではあるが、大いに食べておられた。長いこと居るとお疲れではないかと思い、お暇しようとすると、先生は“まだ、おれ”と言わんばかり。そして門扉の所まで出て来られ、送って下さった。歳がいっても、こうなりたいものだと思った。

 ところで、その高校に勤務していた時、私が30歳代前半だったであろう。大学を卒業した新任の教員が赴任してきた。見るからに若々しく、誠実、温厚な人柄で、生徒にも人気があった。それ以前から彼の教科の準備室へは、毎日のように行っていた。その部屋には、色々と指導して下さった上司のT先生や親しかったM教諭が居た。2年程だったと思うが、当然、彼とも親しくなった。その後、私は転勤し、彼も別の学校に赴任し、それぞれの道を歩んだ。その後、某高校長になっていたが、途中で体を壊し先般亡くなった。58歳である。残念でならない。その高校に勤務していた時の最初の卒業生で最も親しかったSが63歳で一昨年亡くなった。同校で、大変お世話になったI先生が昨年末亡くなられた。91歳であった。また、私が、かつて勤務していた学校の教員が昨年亡くなった。50歳後半であった。なにかと親しくしてもらった先輩のKさん。誠実温厚な人柄であったが、一昨年、病に倒れ、昨年、亡くなられた。70歳にはなっていなかった。

 先週、かつての同僚に会った際、同じく同僚のSさんが10日程前に亡くなったことを知らせてくれた。私は、思わず「えっ!」と声が出た。某高校に勤務していた時、荒れた学校の建て直しに共に汗をかいた仲間である。62歳であった。先日も、知人が何の前触れもなく突然亡くなった。長寿でおられる校長先生は、酒を一滴も飲まず、昨年亡くなった彼も、そしてK氏も酒もそんなに飲まず、たばこも吸わなかった。一方、I先生はアルコールも煙草も嗜まれていた。最もI先生は体育の教師だったから、体は頑健だっただろうが。しかし、先日亡くなったSさんも体育教師で、酒も煙草も好んだ。だとしたら、この違いはどこで生じるのだろう。

 かなり以前になるが、時代劇に大川橋蔵という有名な俳優がいた。銭形平次は当たり役であった。氏は55歳で亡くなったが、体調がかなり悪くなった時に、医師に「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気を使い、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、なぜこんな病気になったんです」と言ったそうである。かつての同僚、そしてSやKさんには残酷過ぎる神の悪戯が、舞い降りたのだろうか。

生まれることは偶然でも、死ぬことは必然。避けることの出来ないもの。日頃から摂生していて長生きする者もいれば、そうでない者もいる。少し健康的でない生活をしていても長生きする者もいれば、そうでない者もいる。その早い遅い、この偶然と必然の間、その期間を決めるものは何なのか。もしかしたら、それぞれの人がいつ死ぬのかは、生まれたときから決まっているのだろうか。神のみぞ知るということなのかと、ふと思ってしまう。作家・山田風太郎の文に、“死が生にいう。「おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない」”と。いつ、突然、舞い降りて来ても、それなりの準備はしておけと言うことなのだろうか。

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新入生歓迎会

4月中旬、午後6時から新入生歓迎会が9号館1階リビングホールで行われた。大学の学生会、短大の学友会が中心に企画して開催されたものである。キャンパスの所々、エレベーターの中などに彼らの手によって新入生へのお知らせの掲示がなされていた。高校を卒業して大学、短大に入学した新入生にとっては、まだまだ不安な毎日を過ごしているであろう。ことに地方から来た学生たちは。こう考えた先輩達が後輩のために考え、数年前から実施している。

日が少し暮れかける時間、その場所に行くと、先輩たちがテーブルを動かしたり、飾り付けをしたりと、それらしい雰囲気に模様替えしており、彼らが、近くのコンビニ等から買ってきたジュース、お菓子、空揚げ、焼きそばなどをテーブルに並べてあった。女子学生の音頭で“乾杯”の掛け声のもとに始まった。先輩、新入生、そして教員が加わって実に賑やか。各自がテーブルの物を食べたり、先輩と後輩が、新入生同士が話に興じ、楽しくワイワイガヤガヤと賑やかなひととき。そのうち、先輩がダンスを披露していた。

ふと見上げるとリビングホールの頭上高い2階、3階には、鯉のぼりが90匹程泳いでいる。この9号館は、吹き抜けになっており、開放感溢れる憩いの空間である。いつも学生たちが、思い思いに談笑している。2階にはベビーベッドや遊戯室、絵本コーナー(こども文庫)など乳幼児保育ができる設備が整っているこども研究センターがあり、朝から親に手を引かれ、或いはバギーカーに乗せられて多くの乳幼児がやって来る。そこでは、保育士を囲んで親子が学び、そして学生たちが実習や子育て支援活動を通して、子どもや保護者と触れ合っている。

親子で作った鯉のぼり、大きな真鯉、緋鯉、そして小さな鯉。3m程の巨大な2匹の鯉は、以前に保護者と子どもたちが作ったもので、その横に並んでいるのは、今年、子どもの身長に合わせてお父さん、お母さんと子どもたちが新聞紙などで作ったもの。中には染め紙や画用紙に子どもの手形をかたどった飾りもあり、様々な趣向を凝らして巧みに作られている。学生たちのアイデアも手伝って、手作りで作られた鯉のぼりが吹き抜けの2階、3階ロビーに渡した細い紐に、子ども達の夢を抱いて泳いでいるのである。子どもの成長記録として作った日と、その子の年齢(○歳○か月)、名前を書いてもらい、飾った後は親子に返される。子どもの成長が比較できるように、去年の等身大鯉のぼりを大切に保存しているお母さんもいる。それは、子の成長を願う親の心でもある。

泳いでいる鯉は、子どもの背丈。来年は、どんな大きさになるのだろう。親も子も楽しみ、ここにも夢がある。毎日、こども研究センタ―にやって来る親子が、自分たちで作った鯉のぼりを見上げている。

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春爛漫

20130402 春には桜、桃、菫、菜の花、バラ、藤、しゃくやく、たんぽぽ、夏には向日葵、朝顔、睡蓮、百合、秋には菊、コスモス、紅葉、キンモクセイ、萩、ススキ、冬には山茶花、椿、水仙、イチョウ、福寿草などが、その他、それぞれの時期に、梅、紫陽花、躑躅、菖蒲、牡丹など、数えきれないほどの花が四季折々に咲く。それが、わが国、わが郷土である。なかでも日本人は桜が好きである。テレビでも、その季節になると桜前線が南から北へと上昇とのニュースが流れる。こんなニュースが流されるのは、あらゆる花の中で桜だけではないだろうか。それだけ日本人にとって、桜は特別なものなのだろう。

全国各地に桜の名所がある。桜そのものは、期待を裏切らずに時期が来たら、毎年見事に咲いている。しかし、その周囲は大変である。ブルーシートを敷き、どこからともなくバーベキューの臭いが漂って来る。見物客目当ての屋台や土産物の出店。そこが有名になればなるほど、騒々しさは増していく。以前は普通の弁当であったが、いつの頃からか、バーベキューをする人が増えた。本来、花に焼き肉は合わないような気がするのだが。

しかし、家族連れで、友達同士で、職場の仲間と賑やかに楽しむことも良いものである。そんなに目くじらたてる程のこともないと思う。ただ、後始末をきちんとすることであろう。皆がモラルを持って行動すればいいものを、一部の不心得者が破目をはずすことから、何かと禁止の項目が増えていくという結果に繋がってしまう。

今や、桜というと花見、花見の桜といえば染井吉野である。しかし、これは比較的新しく江戸期につくられたもので、それまで桜といえば、山あいに咲く、山桜のことであった。何年か前、奈良の見事な山桜を見に行った。大人が何人かで抱えなければならないくらいの根っこで、樹齢も何百年であろう。ところで、桜を愛でる花見は上方から始まり、野遊びの感覚で山に入り、自生する大きな一本の桜を観賞するものであった。一方、江戸では植樹した町中<まちなか>の桜を花見したのである。江戸市中にある花見の名所には、団子屋や茶店が出たが、持参の花見弁当は大きな楽しみであったらしい。つまり、上方は桜の花の美しさを観賞するのに対し、江戸では人々がワイワイガヤガヤと賑やかにコミュニケーションをするための桜でもある。我が大阪のご先祖様は、なかなかのものである。

人々は、七分咲きから満開の桜を観賞し、その下で騒ぐ。しかし江戸時代は桜の散る頃を好んだようである。桜の花びらが少しの風でハラハラと舞い落ちて来る、そして柔らかな土の上に花弁の絨毯が出来る。この風情を楽しんだのである。

桜の花、それは先の割れた5枚の花びら。朝日の桜、夕日の桜、月の光に映える夜の桜も、それぞれに我々の心を揺さぶる。雨に濡れた桜もいいし、風に散る花びらは寂しくはあるが、これはこれで美しい景色をつくる。我々は、まさに自然の恩恵に恵まれながら日々を過ごしている。

大阪では大阪城公園、少し遅れて造幣局の通り抜けなど、満開の桜の下で、家族連れや職場をはじめさまざまなグループで賑わう。静かに花を見るのも喜びならば、親しい人との宴も喜び。自然は桜を咲かせ、桜は、人を和ませる。じっくり季節を感じることも、また大事なことである。

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かつての仲間

年一回、かつての職場のメンバーが集まる。今回も1月下旬に集合した。メンバーは私を入れて8人。一人は、都合がつかずの欠席。それは、某高校に勤務していたときの教職員である。行政職もいれば、教員もいる。まさに多彩な仲間。かなりの昔、私自身もまだ若かった頃の仲間である。学校が混乱し、ある意味で強い雨風、日によっては嵐が吹いたり、雷が鳴ったりで、その事態を正常化するために頑張った彼らである。

毎日が、朝から夕方まで緊張の日々を過ごした。私自身も、うかつに出張で学校を空けられなかった。朝早くから日が暮れるまで学校に張り付いた。ある時は、メンバーの一人が慌てて私の部屋に来て、今、こういうことが起こっていますとの連絡。急遽、部屋を飛び出し、その場所へ。こんなことは日常茶飯事。まったく予想もしない、できない事象が続発する。教職員はどうなることかと、ある者は不安、ある者は傍観。疑心暗鬼。しかし、直接関わる者は、そんなことを言っておられない。永年に渡ってのことゆえ、一朝一夕にはいかず、正常化するのに1年半を要した。だから、毎日毎日が、ある意味で時に緊迫するなど苦の連続であった。楽しいどころの騒ぎではなく、てんやわんやの大騒ぎ。なかでも直面する彼らは団結し、学校を正すために一歩も引かず、頑張った。逆に言えば、貴重な経験、体験である。“何とかしよう”、“負けるな”、“弱気になるな”時には“イテマエ”と鼓舞激励、一丸となった。

メンバーの中には、早くどこかへ転勤したいと思った者もいたはずである。逆に赴任してきた者は、“なぜ、自分がここへ”と思ったと想像できる。そう思いつつも、彼らは逃げなかった。この経験は、その後の私にとって、さまざまな面で大きなプラスとなった。

あの空気は、その場にいた者にしか分からない。自分の勤務する場所を離れての学校改善、改革はあり得ない。そこに居てこそ、学校を把握し、その場の空気を感じ、教職員の気持ちが理解でき、また彼らの協力も得られる。そして、皆が頑張った。私は、PTAとの会合はもちろん、府のしかるべき部署、そして教育委員会へ。時には、メンバーの一人とともに足を運んだ。警察へも二人で行った。その後、互いに勤務する所が変わっても、その時のメンバーは毎年会い、旧交を温め、それぞれの職場で頑張ろうと誓いあってきたし、今もそうである。

そのメンバーのうち、3人は定年退職などで職場を去っており、その都度、“送る会”をしている。残るメンバーも、あと数年のうちに退職を迎える。宴の途中で、必ず“次回、誰も欠席しないように”などと誰かが言う。そして、そのうち誰言うともなく、“次の会の時まで皆、元気に。体を壊したり、欠けてしまうことないように”といった声が出る。もちろん、最初に欠けてしまう危険性の高いのは最年長の私である。気をつけなければと自戒している。しかし、こればかりは順番通りとは限らないぞと思いつつも、やはり私が一番油断しないでおこうと考えている。次の宴のためにも。

かくて日が変わろうとする23時30分、次回の集合を約束して心斎橋にて解散した。

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こども応援ひろば2012パートⅡ

1月12日(土)、短期大学部幼児教育学科の発表会・展示会。学生たちによる手作りの発表会で、一年間の授業の成果を見てもらうものである。この行事に備えて昨年末から、そして今年に入って、まさに学生たちは懸命に取り組んでいた。当日、多くの方々が来られ、学生の作品や劇などを鑑賞しておられた。

そして1月19日(土)、京都外国語大学・大学院外国語学部英米語科教授のジェフ・バーグランド先生を迎え、「異文化からみた日本の子育て~子育てをもっと楽しみましょう!」をテーマにこども応援ひろば2012パートⅡが催された。氏はテレビにも出られるなど著名な方であり、京都の鴨川沿いにある町家に住まれるなど日本人以上に日本の文化を愛しておられる。

講演の出だしが、“私は、この講演をする5分程前に歯を磨いてきた。これは、歯の為にするのではない。祖母に、歯を磨いておれば、汚たない言葉は出ないと言われたからである。だから、一日に7回位磨いている。”から始まって、子どもを育てるとは、少し離れた所から見るということが大事である。つまり、いつも子どもに密着しているようでは子どもは育たない。親や教師は、与えるという意識が強いが、学ぶことが大切である。私の経験では、教えたことが1なら、学んだことは99である。大人は、変化していく子どもから学ぶことも大事。私自身、教えている相手である学生、そして子どもや孫からも色々と学んでいる。そこからヒントを得ることが出来る。教師は、子どもや生徒からも学んでいこうとする姿勢を持っていれば、教師自身も考えが変わってくる。人間は、一生学んでいくことであり、このことによって人は成長していく。

コミュニケーションには発信と同じく受信も要る。日本は発信より受信の国であり、この点は世界一である。日本人は、場を読むことに長けている。一を聞いて十を知る。そして、日本の子どもとアメリカの子どもの違いなどを語られた。

人はさまざまなことで悩む。解決策がなくて考え込んでしまうときがある。しかし、矛盾を抱え、悩んでいるうちが花である。子育てで色々悩むことがあっても、子どもの成長過程を楽しむことである。

聞いている側を全く退屈させず、澱みなく話され、かつ大変ユーモアに富んでいた。演壇での動きも軽やかで、話術は巧みで、我々も見習うべき所が多々あった。一つの所から、どこへでも話を発展されるのにも驚いた。

会場には一般の方々も多く、学生たちも真剣に聞いていた。講演が100分、その後30分間、質疑応答がなされた。高槻から来られた60歳代の男性、地元の東大阪在住のお母さん、子育てに奮闘する本学卒業生、そして学生等が質問し、これに先生は丁寧に答えられていた。出席された一般の方々も、本学学生にとっても、いい勉強になったことと思う。こどもの未来への大きな指針となったのではないかと思う。

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白馬(あおうま)神事

我が家の近くの住吉大社には、白馬がいる。住吉大社の神事に参加する神馬<しんめ>「白雪」である。約25年間、奉仕した先代は老齢と体力の低下のため引退し、新しい神馬は住吉大社鎮座1800年(平成23年5月12日記念大祭)に併せて、一昨年(平成23年5月9日)、代替わりした。

先代は、かつてはいつも境内の舎に居て、参拝者の親子が一皿 ○○円の餌を買って、神馬に与えているのどかな風景が見られた。その頃、綱をつけて神社の中を運動させてもらっていた。当時、飼っていた犬を連れて散歩していたら、偶然に運動している馬と出会った。そのとき、我が愛犬は、あまりに大きな犬(?)に驚いていた。その後は、普段、別の牧場に住んでいるようで、神社の祭礼行事のときには、境内の舎に居た。新神馬も、普段は別の場所で大切に育てられており、普段は舎にはいない。

私の子どもの頃は、住吉大社とは言わず、誰もが「すみよっさん」と言っていた。友だちと遊ぶときも、「すみよっさん行こ」と言い、親に聞かれると「すみよっさん、行ってくるわ」と答えていた。めったに住吉神社とも言わなかった。まして住吉大社とは。大社と言う言葉が使われ出したのは、戦前はともかく、戦後そんなに昔ではない。

その住吉大社が、一昨年、鎮座1800年を迎えた。鎮座とは神社を開くこと。神功皇后が政治をつかさどって11年目の年に開いたと、歴史書『帝王編年記』は記している。

白毛の馬を「あおうま」と呼び、正月に白馬を見ると、無病息災で一年を過ごすことができるとされ、縁起の大変良いものとされている。住吉大社の神馬「白雪」は純潔種の道産子馬で、赤い目を持つ珍しい白馬。その白雪号が、境内の四つの社殿の周囲を駆け巡る白馬(あおうま)神事が1月7日に行われた。本宮前に多くの参詣者が見守る中、神馬は第一本宮の周囲を勇壮に駆け巡る。ずっと昔、私が子どもの頃には、近在から多数の馬がやって来て壮観だったのを覚えている。この行事は、宮廷の行事が伝わったものである。

白馬節会の起源は明らかでない。『文徳天皇実録』には、仁寿2年(852)10月、天皇豊楽院に幸して、青馬を御覧になり陽気を助けたとの記載がある。また、『万葉集』には、天平宝字2年(758)正月7日に侍宴あり、そのために詠んだ大伴家持の歌に、“水鳥の鴨の羽の色の青馬をけふ見る人は限りなしと云ふ”とあるから、奈良時代にも正月7日に青馬を見ることが初春の宮中恒例の儀式であったことがわかる。ただし青馬は、いつの頃からか白馬にかえられたが、呼ぶには「アオウマ」のまま残されたらしい。なお、白馬のことをことさら「アオウマ」という理由は分からないようだ。

ところで、若い頃に読んだ藤本義一氏の随筆にこんなことが書いてあった。氏が青森県の七戸のある牧場に行ったときの話である。氏が白馬の仔がいないので「白馬の仔はいませんね」と尋ねると、牧場の人が「あなた、なにをいってるんですか。白馬は生まれた時は真っ黒で、目の片方に眼鏡をかけたような白い毛が生えていて、それが育つに及んで全身にひろがるんですよ」と。氏は無知だったと書いていたが、読んだ私は「エーッ」と、驚いたのを覚えている。

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チンチン電車

我が家の近くをチンチン電車が走っている。この恵比須町~浜寺駅前を結ぶ阪堺電車が去る4月、全線開通から100年を迎えた。住吉大社や浜寺公園への遊覧客の輸送を目的として開業したもので、今では府内に残る唯一の路面電車である。子どもの頃、レールの上に釘を置いてペチャンコにしたり、小さな石ころを並べたりして遊んだ。あるとき、仲間の誰かが比較的大きな石をレールの上に置いたので、あわてて蹴飛ばしたのを覚えている。また、ちょっと操作すると、踏み切りに電車が近づいてきたことを知らせる警報器を鳴らせることを知った私は、その秘密(?)を友達の誰にも知らせず、たまにだがそれをやって楽しんだ。もっとも、その頃は電車の本数も少なく、車はマイカーのない時代で、数もしれていた。少し離れた線路沿いには、春に土筆が生える所があったので友達と採ったりした。まさにのどかな光景であった。

しかし今でも忘れられないのは、ちびっ子仲間7~8人で線路付近で遊んでいたとき、仲間の一人が電車に轢かれたことである。私自身、あのときの恐怖、心臓が早鐘のごとく打ったのを覚えている。そして顔面は蒼白になっていたと思う。電車が来ているにもかかわらず、彼は何を思ったのか、突然、踏切を渡ったのである。我々は、思わず“アッ”と、声は出なかったが心の中で叫んだ。彼は左手に電車が来ていたことに気づき、踏切を渡り切らずに急遽、右に走った。電車は彼を追いかけるようにして、彼の上を通過したのである。幸いにも、そこには川があり、小さな鉄橋が架かっていたため、彼は枕木の間から川に落ちてしまった。浅い川だったが、彼は水の中で微動だにせず、そのつま先だけが水面に出ていた。行き過ぎて急停車した電車から運転手らが慌しく降り、意識不明の彼を電車に乗せ300m程のところにある病院へ運んで行った。幸運なことに、ちょっとの入院ですみ、彼は、今も私と同じ町内に住んでいて、時々顔を合わせる。また、その病院は今もある。今でも、悪夢としか言いようのないあの場面を思い出す。

何年か前、一輌を2時間貸切りで中学校の同窓会をした。終点の浜寺駅では、全員下車して公園で記念写真を撮って、再び乗車して出発点に戻るコース。車内で、自由に飲食。

ちなみに浜寺駅から東へ100m程のところには南海本線浜寺公園駅があり、この駅舎は東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾氏設計で、明治40(1907)年に造られている。国登録有形文化財になっている。子どもの頃から高校時代まで、浜寺海水浴場へ通った道である。

かつてこのチンチン電車のパンタグラフは、ポールのようになっていた。車体から伸びているポールの先に小さな車輪のごときが付いていて、架線に接触、電気を通して走っていた。ところが時々、火花が飛んでポールが架線からはずれることがあり、その都度、車掌が後部の窓から身を乗り出して、はずれたポールを架線に上手く接触するようにと、奮闘していた。もちろん当時は、ワンマンカーではなく車掌がいた。その間、電車は当然停車したまま。前後のドアも、手動で蛇腹のような形態であったのではなかったか。その頃、運転手に女性もいたような記憶がある。

土曜、日曜はもちろん、平日も、カメラをもった人が、路面を走るチンチン電車を撮っている。私にとって、幼い頃からの風景であり、レトロな光景である。これまでの100年、そしてこれからの100年を目指して、いつまでも走ってほしいと願っている。

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心優しき人

テレビ番組「11PM」の司会で知られた藤本義一さんが亡くなった。多才で、ダンディ―な容姿と軽妙な語り口で人気があった。s49年に『鬼の詩』で直木賞を受賞。『鬼の詩』をはじめ『生きいそぎの記』『ちりめんじゃこ』『オモロおまっせ』など何冊か読んだが、なかでも『わが動物誌』は数回読んでいる。この本を初めて手にしたのは40年前である。学生時代の思い出にこんなことを書いている。

当時の府立大学には多くの犬がいて、集団を組みながらキャンパス内を走り回っていた。その中で、仲間はずれにされ、学生食堂の残飯も食べさせてもらえない一匹の雄犬がいた。少し強い風が吹けば倒れそうな痩せ細った犬であった。この犬を集団の中に入れてやりたい、そして腹一杯に食べさせてやりたいと考えた藤本さんは、黒の太いマジックインクで、その痩せた犬の胴に縞模様を入れて虎のようにするのである。眼のまわりにも、マジックで黒丸を一つ入れた。自分がどのように変貌したのか知らない犬は、首を垂れて歩き出した。珍妙な犬の出現で、学友たちは笑ったので、折角のアイデアも失敗だったか。そして、自分のもくろみが、その犬を仲間からもっと疎外させてしまうのではと心配する。しかし一方で、人間の世界と、動物の世界とは違うのではとも考えた。

縞模様を入れられた犬はひょろつきながら学生食堂へ向かって行った。そこには強者は弱者を蹴散らしながら仲間たちが、残飯を食べていた。ところが、その犬が近づいて行くと、異変が起こった。はじめに彼を見た一匹が、腰を抜かさんばかりに動転し、次々に逃げ出したのだ。その犬は、少しの間、呆然として目の前の食べ物を眺めていたが、突如、猛烈な勢いで食べ始めた。それから暫くして、その犬は毛艶も増し、体格もみるみる立派になり、自然と群に戻っていった。作戦は大成功である。ある時、ドイツ語の教室に入った藤本さんについて犬も入って来て、追い出しても帰らず、二時間の講義の間、氏の席の横に座っていたと書いている。

『この愛すべき長い奴「青」との別れ』では、大学の2度目の2年生(氏は7年在籍して卒業とのこと)の初夏の頃、子供にやられたのか、胴の鱗がはげて、淡紅色の肉をさらけ出した危篤寸前の青大将を拾い上げた。治療してやろうと患部を洗い、メンソレをつけて布で縛り、氏の大型ボストンバッグに棲みついた。鶏の肉、蝿を与えたり、次第に健康を恢復。バッグを開けると、鎌首をもたげて小さな目で、じっと氏を見る。そのうちに「藤本は蛇を飼っている」という噂が広まり、友人は気味悪がったそうだ。

“この青大将は、教室でも、電車の中でもバッグに入って、ぼくと行動を共にした。一日に一回か二回は、学校内の小さな池で運動と排便をさせてやったが、そいつはどうしても、ぼくから離れないようになった。口に指を一寸あてがうと、甘えるように大きな口を開けるのだ。…。「こいつの寿命はどのくらいであろうか」と、農学部の研究室に連れていくと、「さあ、長生きすれば1/4世紀ぐらいは生きるだろう」と…。25年生きるというのだ。ぼくとしては絶望的になった。1m以上のそいつは、…日に日に太く長くなって重くなってくるのだ。…手にしたバッグの重みで肩が痛くなってしまうのだ。それに、この青大将の「蛇生」が、バッグの中にいることで、永久に失われてしまうのではないかと考え、ある初秋の一日、ぼくは、そいつとおさらばしようと決心した。「ま、自力で生きていてくれ!」ぼくはそいつを一握りにまるめて、池の中央に放り投げた。が、そいつは巧みに泳いで、ぼくの方にやってくるのだ。ぼくは一目散に逃げた。その翌日から、ぼくは軽いバッグに、限りない虚しさを覚えたものである”と。

そのほかに、アヒルやカエル、そして飼っていたセキセイインコに纏わる話などを書いている。どれもきめ細やかな愛情豊かな氏の温かさ、優しさが偲ばれる。

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思い出の“田舎”

幼い頃、家族で旅行をするなどということがなかった時代、私にとって「田舎」という言葉は素晴らしく、また、羨ましい言葉であった。2学期が始まると、同級生が夏休みに親と「田舎」へ行って来たなどと、楽しそうに話していることが非常に羨ましかったのである。田舎で、こんなことをした、あんなことをしたなどと話してくれる。当時、“ 田舎へ行く”“ 田舎へ行った”は、だいたいお母さんの実家のことを指していた。

残念ながら私には、“田舎”なるものがなかった。なぜなら私の母親は、私が通っている小学校を卒業しており、父親も大阪市内で育っていた。そして、ともにその生まれ育った家はすでに存在していなかった。たとえ存在したとしても、その“田舎”は、大阪市内であり、同級生のようなわけにはいかなかった。したがって当然、私は夏休み中も我が家の周辺から遠くへ出ることはなかった。

ある時、私は父や母に、何度か「ぼくとこ、田舎ってないの?」と聞いた。そのせいかどうか分からないが、小学校低学年の時だったと思うが、父は兵庫県の親戚の家に連れて行ってくれた。たしか2泊3日だったと思う。親と泊りがけで出かけたのは、後にも先にもこれ一回である。それだけに楽しかった。そこには、いとこが6人居て、一緒に遊んだ。

その幼い時の思い出の場所に、以前から行ってみたいなと思っていた。その親戚も、その後は大阪に出て来ている。地名は知っていても、親戚の家のあった住所が分からない。それが、ひょんなことから、6月に住所を教えてもらった。

過日、60年ぶりにかの地を訪れた。市役所で住宅地図をみせてもらった。家があった所であろう付近は、空き地になっていて草が生い茂っていた。そして周辺の家屋も、当然のことながら現代的なものになっていた。歳下の従兄弟と歩いてすぐの小川へ行き網で魚を掬った。その川もそのままあった。石橋の横の石段を降りてみた。間違いなく、ここで幼い私は魚を獲ったりした。その時、川を蛇が泳いできたのに驚いたのを覚えている。川の両縁などはコンクリートできれいになっていた。もう少し大きいと思っていたが、まさに小さな川であった。あの頃、道を、よく蛇が這っていた。近くの家の蓄音器(なんと古い言葉)から笠置シズ子の“買い物ブギ”などの歌が始終聞こえていた。周囲の家は、私の住んでいた所とは違って、まさに田舎を感じたのである。その家には風呂があったことも楽しかった。都会では、自宅に風呂のある家などなかった時代である。トイレは、屋外にあったような記憶がある。

そこから子供の足でかなり歩いたと思うが、海水浴場へ皆で行き、砂浜で親戚の方が作って下さった豪華な弁当を食べた。その浜辺にも今回行ってみた。海水浴客で賑わっていた。夜に歩いている時、空にくっきりと天の川が浮かんでいたのも、とても印象深い。そこで将棋というものを初めて教えてもらった。これがきっかけかどうかわからないが、我が家にあった駒で将棋をしたり、歩回し(ペコ回り)、蛙飛び、山崩しなどを近所のちびっこ仲間とよくした。自分の家以外で泊った唯一のものであるだけに、非常に思い出が深い。

今の子供たちは、毎年のように新幹線で、車で親と旅行をし、なかには海外へも行っている。大変楽しいことである。しかし、家族で旅行などしなかった時代に育った者にとって、数少ない楽しかった日々は貴重な思い出になり、歳がいった今日でも心に強く刻まれている。今日のように家族揃っての遠出が当たり前の裕福すぎる、幸せすぎるのも、逆にどことなく貧しさを感じてしまう。

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