箸の文化

食べ物をはさみ切る、引き裂く、持ち上げて口元へ運ぶ。時に、隣の人の器の物をもらったり、逆に相手の皿に移したり、子どもの口へ運ぶなど自由に移動させる。行儀は悪いが突き刺すこともある。複雑な手指の動きで、自由自在に操る。たった二本の棒だけで食べ物を美しく上手に口に運び、移動させることのできるお箸。日本の美とも言えよう。そこには、スプーンやフォークでは見られない美しさがある。

しかも、お盆になると、割り箸を野菜に刺し、キュウリの馬とナスの牛を作り、飾りまですることがある。これは、馬に「仏様に早く来てもらいたい」、牛には「仏様にのっそりゆっくり帰ってもらいたい」という思いを託しているのだそうだ。お盆は、死者や御先祖様と、のっそりゆっくり語り合いましょうということだろう。かくの如く、お箸と我々は、深くつながっていると言えよう。ところが、こんなにいつもお世話になっているにもかかわらず、“箸にも棒にもかからない”“箸の上げ下ろしにも嘴を入れる”“箸が転んでも笑う”とか、お箸は、あまりいい意味で使われていないのは、ちょっと気の毒な気がする。

私は西洋料理でも、箸が置いてあれば、これを使う。スパゲティでも箸の方が便利である。日本人の手先の器用さは幼い頃から親しんだ箸と無縁ではないのではないか。もっとも私は極め付きの不器用だが、箸の持ち方だけは正しく、かつ巧みに使えると自負している。これは、我が親に感謝している。

ところで、テレビの料理番組は当然として、ドラマやバラエティ番組で、食卓を囲んで、或いは食事のシーンがよく大写しになることがある。そのとき、意外と箸を正しく持てる人が少ない。あんな持ち方で、よく食べ物を落とさずに口元まで運べるなと感心する。

箸、そして箸づかいは、日本の美しい文化の一つと言えるのではないか。それだけに美しく持つことは大事であろう。その乱れは、我が国食生活の乱れとまでは言わないが、やはり箸の伝統美を大切にしていきたいものと思う。

大昔はともかくも、手掴みで食べる習慣のなかった我が国は、よく考えれば凄いことではないか。ヨーロッパではナイフ、スプーン、フォークであるが、これが登場するまでは手掴みだったのだろう。なぜなら金属器を使うよりも、二本の木を使用する方が古い筈である。まさに繊細巧緻な日本文化と言える。我がご先祖様は偉かった。しかも、最近では宇宙飛行士が宇宙での食事の際に食べ物をしっかりと持つことができるので、箸が活用されているそうである。

まさに日本人にとっては、幼児から天寿を全うするまで、何十年、朝から晩まで、お世話になっている道具だ。しかも、死んだら今度は、家族などが箸でお骨<コツ>を拾ってくれる。なんと、死んでからもお世話になるのである。まさか、スプーンやフォークで、という人はいないだろう。そんなことになれば、骨壺でなく骨カップである。“ふざけ過ぎだ。まじめに書け。”と言われそうなので、ここで箸を置こう。いや、筆を置こう。

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