チンチン電車

我が家の近くをチンチン電車が走っている。この恵比須町~浜寺駅前を結ぶ阪堺電車が去る4月、全線開通から100年を迎えた。住吉大社や浜寺公園への遊覧客の輸送を目的として開業したもので、今では府内に残る唯一の路面電車である。子どもの頃、レールの上に釘を置いてペチャンコにしたり、小さな石ころを並べたりして遊んだ。あるとき、仲間の誰かが比較的大きな石をレールの上に置いたので、あわてて蹴飛ばしたのを覚えている。また、ちょっと操作すると、踏み切りに電車が近づいてきたことを知らせる警報器を鳴らせることを知った私は、その秘密(?)を友達の誰にも知らせず、たまにだがそれをやって楽しんだ。もっとも、その頃は電車の本数も少なく、車はマイカーのない時代で、数もしれていた。少し離れた線路沿いには、春に土筆が生える所があったので友達と採ったりした。まさにのどかな光景であった。

しかし今でも忘れられないのは、ちびっ子仲間7~8人で線路付近で遊んでいたとき、仲間の一人が電車に轢かれたことである。私自身、あのときの恐怖、心臓が早鐘のごとく打ったのを覚えている。そして顔面は蒼白になっていたと思う。電車が来ているにもかかわらず、彼は何を思ったのか、突然、踏切を渡ったのである。我々は、思わず“アッ”と、声は出なかったが心の中で叫んだ。彼は左手に電車が来ていたことに気づき、踏切を渡り切らずに急遽、右に走った。電車は彼を追いかけるようにして、彼の上を通過したのである。幸いにも、そこには川があり、小さな鉄橋が架かっていたため、彼は枕木の間から川に落ちてしまった。浅い川だったが、彼は水の中で微動だにせず、そのつま先だけが水面に出ていた。行き過ぎて急停車した電車から運転手らが慌しく降り、意識不明の彼を電車に乗せ300m程のところにある病院へ運んで行った。幸運なことに、ちょっとの入院ですみ、彼は、今も私と同じ町内に住んでいて、時々顔を合わせる。また、その病院は今もある。今でも、悪夢としか言いようのないあの場面を思い出す。

何年か前、一輌を2時間貸切りで中学校の同窓会をした。終点の浜寺駅では、全員下車して公園で記念写真を撮って、再び乗車して出発点に戻るコース。車内で、自由に飲食。

ちなみに浜寺駅から東へ100m程のところには南海本線浜寺公園駅があり、この駅舎は東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾氏設計で、明治40(1907)年に造られている。国登録有形文化財になっている。子どもの頃から高校時代まで、浜寺海水浴場へ通った道である。

かつてこのチンチン電車のパンタグラフは、ポールのようになっていた。車体から伸びているポールの先に小さな車輪のごときが付いていて、架線に接触、電気を通して走っていた。ところが時々、火花が飛んでポールが架線からはずれることがあり、その都度、車掌が後部の窓から身を乗り出して、はずれたポールを架線に上手く接触するようにと、奮闘していた。もちろん当時は、ワンマンカーではなく車掌がいた。その間、電車は当然停車したまま。前後のドアも、手動で蛇腹のような形態であったのではなかったか。その頃、運転手に女性もいたような記憶がある。

土曜、日曜はもちろん、平日も、カメラをもった人が、路面を走るチンチン電車を撮っている。私にとって、幼い頃からの風景であり、レトロな光景である。これまでの100年、そしてこれからの100年を目指して、いつまでも走ってほしいと願っている。

This entry was posted in エッセイ. Bookmark the permalink.

Comments are closed.