ゆるんで、たるんで、タガがはずれた

“親になってはならない親”というのも、変な言葉。本来は、親になってはならない人と言うべきなのか。児童虐待が、相変わらず続く。大阪市内のマンションで3歳と1歳の幼児が遺体で見つかった。逮捕された母親は「育児がいやになった」「自分の時間が欲しかった」「ホストクラブで遊びたかった」などと供述している。まったく未熟で、その無軌道な行動に驚く。食べ物も水も与えられず、真っ暗な中で母親を待ちつつ死んでいった。なんとも痛ましい。近隣の住民から虐待を疑う通報があったにもかかわらずである。訪問しても応答がなく、ドアは施錠されていてどうしようもないというが、この対応では通報しても意味がないし、これでは同様のことが果てしなく続くであろう。

連日のように児童虐待が報じられているが、どの事件がいつあったのかさえ分からなくなるほど多いのではないか。色々な事情・背景があろうとも、通常、親が自分の産んだ子を虐待するのは考えられない。それにしても、これまでは、「親は、自分を犠牲にしても子供だけは」と考えるとされていたが、今では、「子供は大事だが、自分はもっと大事」と考える親が増えてきたのではないか。今回の事件は、「子供はどうでもいい、自分の方がもっと大事」である。話にならない。親になる資格のない者が、親になったと言わざるを得ない。これだけ虐待が多いからと言って、親になる資格を与えない、免許を与えないというわけにもいかない。とするなら、まずは親になることの意味、子育てとは、親としての責任や自覚を促す教育を早い段階でしていくことであろう。このことが、人としての生き方を教育することにつながっていく。そこに果たす学校教育はもちろん、地元で子育て力アップのための母親教育に汗をかくさまざまな社会教育団体の役割には大きいものがあろう。それにしても、この母親も、こども手当をもらっていたのだろう。

一方、東京で111歳の男性とみられるミイラ化遺体が見つかったことを発端に、全国各地で、所在不明の百歳以上の人が続々と判明。所在不明の高齢者について、マスコミの問いに70歳後半の娘さんが、20~30年前に父親は、出て行ったまま分からないとの話。その人が40~50歳台の頃である。探そうとしなかったのか、そこが判然としない。さらには104歳の人とみられる白骨化した遺体が見つかった事件では、長男が「持ち運べるように骨を細かくした」と言う。異様とも思える家族関係、不思議な行動、年金の不正受給疑惑…。

さらには、行政の対応にも唖然とする。127歳の男性の所在が未確認になっていたが、44年前に死亡届が出ていたことが判明というに至っては愕然。しかも、この男性には投票案内状が、死後40年以上も送り、あて先不明で返送され続けていたという。さらに、江戸時代末期の安政の大獄の前年に誕生した人が、そのまま152歳なっているに至っては笑ってしまう。東京での一件が発端で調査が行われたわけだが、もしそういうことがなければ、そのまま放置で200歳、300歳の人が生存することになってしまう。

それにしても、若い親は、我が子に対して虐待に走り、歳のいった子(と言うべきか)は、我が親の行方が分からないと言う。さらには、親の骨を金づちで細かくして、リュックに入れる。家族とは、その絆は一体どうなっているのだろう。そして、行政も。すべてがゆるみ、たるんで、箍<タガ>がはずれているとしか言いようがない。どこかで止めなければ、崩壊が行く手に待っている。

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