早すぎる死

4月の日曜の朝、卒業生のMから電話があった。一瞬、悪い予感がした。取り立てて用事がないのに、しかも日曜の朝に電話をかけてくるはずがない。しかも、MとSは同級生である。電話は、Sが亡くなったということであった。私はs40年4月に大阪府立高等学校の教員となった。3年の日本史を担当し、教員として初めて入った3年の教室に、Sはいた。背が高く痩せていて、目だけがギョロッとした印象の生徒であった。他の生徒よりかなり大人びており、スポーツは万能で、リーダーシップもあった。そのクラスにはかなりのやんちゃがいて、先生方を困らせていたが、私はなんとなく相性が合ったのか、楽しく一年間教えた。放課後によく彼を中心とするメンバーとだべっていた。卒業後は、学校に泊りこんでの部活動の合宿の時には彼がよく後輩の指導に来ていた。そして我が家に、彼を中心とする卒業生がしばしばやって来ては、時に泊っていった。それは、私が結婚後も、かなりの期間続いた。そして、正月には、ほぼ全員が集まっていた。その後は、それぞれが仕事の都合で、集まることは少なくなったとはいうものの、彼の後輩を含めて卒業年度を越えて20人近くのメンバーで、彼はリーダーシップもあり、その中心であった。勤務の都合とかで、集まるのは、だいたい10人余りで食事をしたり、金剛山へ登ったり、吉野の桜を見に行ったりもした。もっと以前は、このグループとは旅行もした。彼は、スポーツが好きで、ことにスキーでは、職場の仲間と海外にまで行っていた。彼のしゃべり方、あの笑い声を、今も思い出す。

昨年、病気で入院していたことを記した暑中見舞いが届いたので、まさに熱波の8月中旬、まだ新築まもない彼の家に見舞いに訪れたのが、彼と会った最期である。帰りには、最寄の駅まで車まで送ってくれた。その時は、まだ元気にしていた。今年の年賀状も、通常通りきた。年賀状には、「徐々にですが、体力を戻りつつあります。ご安心下さい」と書かれていた。しかし、私は病名から心配していた。3月になって、その後、元気にしているのか、心配になったので、近いうちに連絡をしようと思っていた矢先の電話。一瞬、しまったと思った。一度、会っておきたかった。電話をしていればよかったと悔いた。思ったときには、するもんだと反省することしきりである。

すべての卒業生の中でいつまでも親しくしていたのは、彼と、その周囲の卒業生であった。皆、それぞれ歳がいき、おじさん、おばさんになっている。通夜には、そのメンバーはもちろん、同級生が何人か駆けつけていた。かつての職場の仲間だろうか、かなりの人がやってきていた。あまりに多くの人々が来ているのに驚いた。彼の人望であろう。葬儀は勤務の都合で行けなかった。

5月の連休明けに、Mと一緒にお参りにいった。奥さんは、「死ぬということは大変、あのようにならないと死ねないんだと思いました。」の言葉は重かった。彼の病状が思われるだけに。去年の夏に見舞いに行っておいてよかったと思うと同時に、昨年末か今年の初めに会っておけばとの悔いが今も残る。しかし一方、彼の気性、男気、そしてダンディな彼のことゆえ、元気のない身を見せることに躊躇したかもしれない。しかし、私にとって一人の貴重な卒業生(5歳しか違わないゆえ、教え子とは憚る)が居なくなってしまったことは、とても寂しく悲しい。

彼は、高校卒業と同時に就職し、その職場に40年余り勤務し定年退職した。体を壊してからは、奥さん、二人の息子さんの家族に見守られ幸せだったのではないかと思う。淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏は“人は生きて来たように死んでいく”と述べている。不平不満を言いながら生きてきた人は、不平不満を言いながら死んでいくと。多くの人から信頼され、好かれていたSは、あの真摯な生き方から恐らく家族に感謝しながら旅立ったのではないだろうか。でも、63歳は早すぎる。

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