紫陽花

紫陽花が咲くのは6月から7月。色とりどりに咲き、梅雨を美しく彩る。季節を表す花は、いくつかある。梅、桜、菊などは、その典型であろう。しかし、紫陽花もその一つと言えよう。「紫陽花」は、あくまで紫陽花と書くからいいのであって、これを「あじさい」「アジサイ」では、やはり風情がないように思う。あじさいの花、アジサイの花と言ってもおかしくないが、紫陽花の花と言うと、くどい。そこに、漢字の妙がある。

桜には花見があって、人々は花を前にして、多人数で飲食をしたり歌を唄ったり、踊ったりと賑やかなもの。しかし、紫陽花にはそれがないというより、似合わない。静かに眺め、しとしとと雨が降っていると美しさは、さらに冴える。雨に濡れる紫陽花は、それだけで見る人を引きつけるのである。雨がよく似合う。ある意味、桜は騒がしさの中にあっても似合うが、紫陽花にはそれがない。あくまで、静かさが似合う庶民の花であり、時に気品を感じる。

しかも紫陽花は、それぞれ微妙に色が異なる。雨が降ると、その色は一層、目にしみる。それは、空から落ちて来る雨滴に、紫や青、時にピンクの、しかもそれぞれに微妙な濃淡がある色の違った絵具を入れてあるように。紫の絵具が入った雨滴が、白い花弁に落ちた所は、そのような色に滲んでいる。道を歩いていると、民家の前に咲いているのをよく見かける。小学生の頃、近所の家に遊びに行くと、裏庭に池があり、そこには大きな蛙がいて、池の周囲に、これも大きな紫陽花が咲いていたのを思い出す。

全ての花々は、自身、美しく、かつ少しでも長く咲き続けていたいと思っているはずである。紫陽花は、比較的長く、その美しさを我々に見せてくれているのではないだろうか。本学にある女子寮にも、紫、薄紫、ピンクが咲いている。美しさとともに、静かな風景画を見るようである。地元住民が苗を植えたのをきっかけに、人々の努力で咲く大輪の花は道を美しく飾り、所によっては“あじさい祭り”なるものが催され、地域の活性化にも貢献している。

もっとも花に見える紫や青の部分が、実際は萼<ガク>であり、本来の花は真花<マカ>といって、普段は萼に隠れているので目にする機会はそうないものだそうである。

土の酸度がひとつの要因となって花の色が変化し、アルカリ性で赤っぽく、酸性で青っぽくなるとのことで、まるでリトマス試験紙のようだ。植えられている土の性質によっても色が変わるらしい。でも、これでは夢がない。それよりも、空からさまざまな色のついた雨滴が落ちてきて、それが花の上にポタッと落ちてそれぞれ色が付く。その方が夢がある。

しかも、咲いたばかりのときから花の終わりまで、日の経過とともに微妙に色を変えながら咲き誇る。花の七変化であり、これが何とも言えぬ魅力でもあろう。

先日、知人から紫陽花を描いた絵を頂いた。まるで画用紙から浮き出るように紫陽花が静かにきれいに咲いている。そこには紫、濃紺、青、淡いピンク色と、空から雨滴が画用紙に落ちたように紫陽花が滲んでいる。その絵は精根こめて、画用紙に息を止めて描いたのであろうか、精彩かつ精細に描かれている。その静かな絵を見ると、花の美しさに、ふと落ち着くのである。

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