四季のある国

 二月には梅が、三月には桃が咲く。そして、四月には桜が咲く。冷え込んだ地に春がやって来ると、その季節の大きな力の前に桜の木は、一斉に蕾が膨らみ花を咲かせ、虫を呼び、鳥を招く。梅は音もなく静かに目立たないように片隅で咲くかのごとく、桜は音を立てて賑やかに咲き誇るがごとく開花する。どこか心が華やぎ、うきうきとしてくる。一斉に咲く桜は、人に喜びや楽しみを与える。しかし、時には悲しみ、淋しさ、世のはかなさを感じさせる。ことに、花びらがかすかな風に散っていくとき。

 そして、山吹(ヤマブキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、初夏には芍薬(シャクヤク)、秋には秋桜、菊が咲き、紅葉が赤く色づく。そして冬になると、一斉に葉を落とした木々の枝が空を突き刺すように伸びている。底冷えの冬には山茶花が。季節の移り変わりとともに、それぞれの樹木が、待ってましたとばかりに花を咲かせ、実がなり、山肌の色を染める。道端の雑草さえ、季節により緑が鮮やかになったり、それ相応の花を咲かせる。まさに自然がおりなす芸術である。春には春の花が咲き、夏には夏の、秋には秋の、冬には冬の花が咲く。

 千差万別の樹木が風景を変え、放っておいても我が日本の国は美しく変化していく。自然の偉大な力に驚く以外、何ものでもない。こうしたことが、何百年、何千年と続いてきたのである。子どもの頃、顕微鏡で見たことがある花弁、メシベ、オシベの形など、驚くべき精巧さで作られていて、それは美しい芸術品である。しかも、それを一つ一つの木々に無数に咲かせる。自然は、こうした素晴らしい作品を、それぞれの季節になるときちんと作り、我々は、それに引き付けられ鑑賞する。

 ことに一斉に美しく咲き、はかなく散る命短い桜は、日本人の心をとらえる。ところで、桜の樹齢は、スギ、クス、ケヤキなどの樹木と比べれば短い。桜をとくに愛でるようになったのは、平安遷都の頃からである。平安京の朱雀大路には桜と柳が交互に植えられ都を彩っていたという。

 人は、自然の力で咲いた花を眺め、その前で弁当を広げ時を楽しむ。初秋から冬にかけて、落葉樹が色づいてくると人々は紅葉狩りを楽しむ。生活に癒しと潤いを与え、喜びを感じ、郷愁を感じる。四季折々に、私たちの目を楽しませ、心を癒し、季節の移ろいとともに風情を感じさせてくれるのである。

 ところで、よく考えれば、春、夏、秋、冬、これがこんなに規則正しく順番にやって来る国はあるのだろうか。葉書きや手紙の冒頭に、季節の言葉から書き始めるのは日本人ぐらいではないだろうか。常夏でも、極寒でもない、この四季の存在する国に生まれたことを、ただただ有り難く思う。

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