セミの抜け殻

我が家の近辺では、7月中旬から、セミが徐々に鳴きはじめ、下旬になると一斉の大合唱となる。それは、小中学校の終業式に合わせたように。その歌は朝の5時すぎから始まり、7時頃には、まさに大合唱となる。そして、昼過ぎには大合唱に疲れたのか、殆どのセミが昼寝に入るようである。時折、昼寝をしそこねたセミが鳴いている。いや、昼過ぎに鳴いているのは、朝寝坊をしたため大合唱に参加し損なったずぼらなセミかもしれない。まさに季節を感じる。私にとって夏休みは、幼い頃からセミの鳴き声とともにやって来るのである。

セミが夏に木に産みつけた卵は、数カ月から一年かけて、やっと孵化。その幼虫は暫くすると地面に落ち、土に潜っていく。潜る深さはセミの種類や季節によって色々らしい。潜った後は、管のような口を木の根に刺して樹液を吸いながら、アブラゼミやクマゼミなら5年ほど土中で過ごすと言われる。土の中では、どんな暮らしをしているのだろうか。長い年月、地中に居て、ようやく地表に出て光を浴びて生を謳歌するとはいうものの、世に出てわずか数日で、この世を去る。はかなくも短い寿命である。それだけに、地表に出た彼らには、夏の日差しの下、思いっきり歌わせてやりたいと思う。我々にとって、つらい暑い日差しも、長年、土の中で頑張ってきた彼らのためには少々我慢しよう。

ところで昨年の夏、どこからやって来たのか、我が家の前栽のコンクリート面に、仰向けにひっくり返って足を動かせていたセミの幼虫がいた。せっかく地上に出て、元気に飛び立とうとしているのに、これでは羽化すらできない。羽化しやすいように傍らの網戸に幼虫を置いてやった。幼虫は上手に網戸を上がっていき、夜遅くには、きれいに羽化したアブラゼミに変身していた。明け方には、どこかへ飛んで行った。彼<彼女か?>が長年の間、着ていた服を網戸に置いたままである。抜け殻だけが残った。おそらく我が家の近くの神社で鳴いている仲間の中に入ったのだろう。置いていった抜け殻は、網戸に足をからませたままずっと静止している。わざわざ取って捨ててしまうのは、なにか不憫で可哀想な気もしたので、そのままにしておいたら、雨にも負けず風にも負けず、動じることなく一年が経った。今も抜け殻は、網戸にまるで生きているかのごとく止まっている。時々、それを見るが、抜け殻の主は、とっくに世を去っているのである。なにか不思議な気がする。この主は、昨夏の間に死んでしまい、その子は、今、どこかの地中にいるのだろう。もし数年して地表に出てきてセミとなった彼(彼女)が、偶然、この網戸に止まることがあれば、我が親の抜け殻に気づき、その再会に感激し涙することだろう。

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