Jan 10, 2012
年末の集い
Dec 08, 2011
破天荒な75年
奇抜な行動と過激な発言、歯に衣着せぬ毒舌、奔放すぎる藝で人気のあった立川談志さんが亡くなった。
この1月、『人生、成り行き~談志一代記~』を読んだのを思い出した。聞き手は作家の吉川潮氏。思わず笑ってしまった。そして、そこには立川談志という特異な人物の人生哲学が流れている。さまざまな挿話と多彩な騒動。本人が語る戦時中の少年時代に始まり、14歳の頃には落語家になろうと決めていたとのこと。少年時代、新宿の末広亭に通った。土間に六人掛け位の粗末な椅子が並んでいる中、一番前か二番目の列に座って食い入るように落語家を見ていたという。それにしても氏の記憶力には驚かされる。幼い頃の町の記憶、そして本を読むのが好きで、貸本屋から借りて読んだ本がいくつも出てくる。私も子どもの頃、近くの市場の中にあった貸本屋で、いつも借りていたが、書名などまったく覚えていない。
また、前座時代に“誰を目標にというのはなかった。最初から自分がうまいことに気付いた。だって文楽師匠よりうまいなって思ってたもん”と語る。真打ち昇進をめぐるごたごた、所々にテレビなどでよく知っている落語家が登場してくる。芸能人同士の逸話が面白い。落語協会脱退と立川流創設などなど、自らも積極的に波乱の人生。本人の語りで辿る破天荒な半生である。
芸能人野球大会が盛んで、氏が噺家の野球チームを作ったときの話も面白い。“曲芸のチームは弱い。球を持っている時は、「はっ」とか言って手先でくるくるやったりするんだ。でも見せ場は投げるまで。”球を扱うのは上手だが、投げたら下手だと。“つばめは一回デッドボールを受けて眼鏡割ってから、打つときも守るときもキャッチャーマスクしてましたな”と。本当かいな。
円楽(先代)さんについては、“あたくしに投げさせればひとつも打たせません”と円楽さんは言っていた。しかも“色が黒くて背が高いから妙に信憑性があったんです。それがやらせてみたら、どこに球が行くかわからないし、バット持たせてもかすりもしない。運動神経が先天的にない奴で、どうにもなんナイ”。氏のチームは野球試合で、勝った記憶がないと言う。しかも小学生に負けた時のことをこう書いている。“小学生に負けた時は、「もうよそうよ」って愚痴が出たね。また強い小学生チームなんだけど、手加減をしらないんだ。「ガキは洒落がわからないから始末が悪い」”と。
氏が選挙に立候補した時の話も楽しい。選挙カーでマイクを握って速射砲のように言葉がポンポン飛び出す。類まれな才能。自らの選挙戦、そして政界進出。依頼されての応援演説。鋭い指摘、舌鋒、ときにあっけに取られる。と同時にユーモアに溢れている。全編を通じて、氏の記憶力は、ただただ凄い。
毀誉褒貶がついて回った氏。でも、言いたいこと、やりたいことを貫いても、落語の世界で許されたことが不思議に思うとともに、生き抜くことの出来たのは、やはり卓越した力があったからだろう。そうでなかったら消えている。
Nov 07, 2011
1人の42年、23人の42年
リビアの最高指導者カダフィ大佐が死亡した。「ネズミどもを引っ捕らえろ」。大佐は反体制派のデモが始まったとき、国営テレビを通じてこう叫んだが、それから8か月。最後はもみくちゃにされ、大声でわめかれ、血だらけになって殺害された。1月に北アフリカのチュニジアで起こった政変が、瞬く間に中東諸国に広まり、2月にはエジプト大統領を追い出すなど、ドミノ倒しのように民主化運動の火が燃えた。この「アラブの春」はリビアにも波及し、独裁政権はついに崩壊した。
最初にテレビの報道で見た顔から血を流し、群衆にもみくちゃにされている男性が、かつての最高指導者とは、すぐには信じられなかった。これまでテレビで見る大佐は、帽子をかぶり胸を張った勇ましい姿ばかりであったから。排水管に隠れていたところを引きずり出されたようだが、どこかイラクのサダム・フセインと似通っている。
27歳でクーデターに成功し、その後42年間、憲法も議会もない国に君臨し続け、弾圧された死者は1万人とも、3万人とも言われる。ということは、余りに多くてはっきりしないということだろう。それにしてもリビアの最高指導者で最大実力者であるカダフィは大佐だが、大将や中将、少将はいないのか、どうなっているのだろう?
42年前の1969年、大佐がクーデターで国王を追い出したその頃、我が国では学生運動が激しく、東大安田講堂で多くの逮捕者が出た。私自身、まだ20歳代で、教員になって数年しか経っていなかった。当時の首相は佐藤栄作氏で7年半在任し、戦後の内閣総理大臣の中で最も長期政権を維持した。以来我が国では首相が23人代わった。我々日本人は、総理大臣23人の名前をどれだけ言えるだろうか。
一方、大佐は42年間も国の権力を独り占めし、リビアという国を思い通りに動かした。実に長い独裁政治。1人が長きに渡って権力を握り続ける独裁は、金と暴力にまみれ必ず腐敗し国民は困窮するもの。そんなことを考えれば、1人が42年も政権を握っているより、まだ23人の42年の方がましか。もっとも1年やそこらで首相が交代するのは論外だろう。1人で42年は悲劇であり、1年やそこらも悲劇、いや喜劇。
勝利した反体制派は歓喜しているが、「カダフィ後」の新しい統治の姿はまだ見えてこない。憲法も議会もなかった国を新たに整えるのは容易ではない。これからが、本当の意味での春がやって来るかどうかである。
Oct 05, 2011
元気よすぎる掛け声
学校にいると、早朝に、また放課後に東大阪大学敬愛高校運動部の女生徒たちが、一斉に声をかけて走っている。かつて別の学校に勤務していた時は、グランドからは野球部、体育館からはバスケットボール、バレーボール、そして柔道場、剣道場からは裂帛の気合が聞こえていた。そこには、懸命に頑張る青春があった。まさに国の将来を担うであろう若者の元気な声はいいもので、こちらも元気になってくる。全国の学校で彼・彼女らの汗が迸り、青春が燃えている。
ところで話が変わるが先日、ある焼き肉屋へ行った。その店は、大阪にもかなりの数の店舗を構えている。安くて庶民的で手軽なので時々利用している。若者のグループや家族連れも多い。ところが今回、一歩店内へ入って驚いた。店員が客を席に案内する都度、入口近くに一列に並んだ数人の店員が、一斉に「いらっしゃいませ」などと大声を発する。まさに体育会系である。私は一瞬、後ずさりしたくなった。その店の他の店舗では、そんなことはなかったので驚いた。ひょっとすると、他店も一斉にそうなっているのかもしれないが。
店の方針として、お客に対して、また、店員の士気を高めるにもよいと思ってしていることであろうが、我々のような年配者にとっては場違いな感じで、大きな声で勢いよく大歓迎(?)の挨拶をされると恥ずかしくなって、ちょっと待ってくれ、やめてくれ、ごく自然に静かに入店させてくれと言いたくなる。もちろん元気がよく、お客に対する対応もいいという人もいるだろうが、私にはちょっとなあと感じる。そんな大声を一斉に発しなくてもいいではないか。大声を発するなら、開店前に元気をつける意味で実施してくれと。しかも、注文をとりに来る店員のすべてがマニュアル通りの決められた話し方をする。店内至る所から元気な店員の声が聞こえる。元気が良すぎて店のなか全体が、掛け声をかけて一心不乱に走っているようだ。店内が賑やか、雑踏このうえない。仲間との会話も小さな声では周囲の音に邪魔され聞こえないから、自然と仲間内の声も大きくなっていく。
たまたま私の席は、入口からかなり離れた所だからいいものの、もし、あの近くの席なら客が入って来る度に、あの一斉の大声。これでは喧しくて、落ち着いて食べているどころではない。
賑やかなこと、元気なことはよいことではあるが、これも時と場所と程度ものであって、元気の良すぎる喧騒はどうかなと思う。静か過ぎるのも困るが、騒がしすぎるのも困る。普通であってほしい。ほどほどである。
そして先日、友人と同種の店へ行った。店員が「いらっしゃいませ」と大声でもなく普通の落ち着いた声で、心をこめて言う。席に座っても落ち着いておられるし、周りの客も静かに食事をしている。互いの会話も楽だ。普通の静かさ、普通の騒がしさの中で、ゆっくり語らいながら食事をした。
Aug 30, 2011
甲子園の熱風
8月6日、甲子園で高校野球開会式が行われた。普段、開会式はテレビのニュースで見るぐらいなのに、私が勤務する村上学園の東大阪大学柏原高等学校が大阪代表として出場していると、やはり開会式そのものをテレビで観戦してしまった。不思議なものである。
今年は開会が例年より早く始まった。節電で球場のライトの使用を抑えるためである。暑い青空の下、球場に並んだ49校の選手は、正面を向いて、細かい動きはあるものの、彼らはきちんと整列していた。当然と言えば当然だが、このことが今日できない高校生が多くいるのが現状である。
私自身、甲子園など別世界のことと思っていたら、まさか我が学園で生起するとは予想もしなかった。教員になって公立で38年、現在の勤務校で9年目、都合47年目に初めての経験である。1回戦、2回戦、アルプス席の外側で、自校の試合を待った。身動きも出来ない人ごみ、猛暑、そして応援する人々の熱気の中で待つこと約1時間半。その間、球場内で今、行なわれている試合の歓声が外で待っている我々に怒涛の如く聞こえてくる。そして柏原側に応援に来ている多くの関係者、子どもから柏原OBのお年寄りまで、熱い思い、あの熱気は何とも言えない。一体感と独特の雰囲気。形容し難い、凄いの一言。
この歳になってこんなことを経験するなんて、有り難いことである。うだる暑さの下、これをもろともしない甲子園のあの熱気、凄さを体感、体験できた。
応援団を運んでくる何十台というバスの列。甲子園周辺の人の群れ、雑踏。そしてスタンドでの大声援。なかでもアルプス席は大騒ぎ。強い真夏の西日をものともせず、自校がチャンスをつくった時は皆立ち上がっての声援、メガホンの声、団扇を叩く音、手拍子と拍手。ブラスバンドの響きにチアガール。苦境に陥ったときの一瞬息の止まった静寂と声援。そのあとの歓声と溜息。球場全体が生きている、唸っている。その中を、一羽の鳩が時々、スタンドに舞い降りてくる不思議な光景。
1回戦の初出場という重圧ののしかかる中での安定した勝利、2回戦は負けたとはいうものの大健闘。延長10回で力尽きたが、素晴らしい試合だった。翌日の新聞には、“「残念、でもようやったよ」。あちこちから飛び交う選手をねぎらう声が、試合を象徴していた。”と書いていたが、まさにその通りであった。
全国の高等学校から勝ち抜いてきた代表校が集う全国大会は、憧れの甲子園出場の夢をかなえた高校生、選手同士の勝負であり、勝った側に華があると同時に、負けた側にも華がある。そして今、甲子園初出場を果たし、素晴らしい試合をした柏原高校野球部は、その歴史に輝かしい1ページを記した。来年は2ページ目を記すであろう。2回目の夢を見せてもらおう。
Aug 03, 2011
舞洲に舞う
高校野球の大阪大会、これまで幾つかの高校に勤務していたので何度も応援に行った。3回戦か4回戦まで進んだことがあったかも。殆どは1、2回戦まで。ひどい時は1回表、相手チームの先頭打者に投げた第一球をホームランされ、後はメッタ打ちにあい散々な結果も経験した。経験したといっても、実際に経験したのは選手である高校生で、私はただスタンドで応援していただけだが。しかし負けた我が校の彼らには、日頃のたゆまぬ練習、そして試合で全力を出し尽くしたという、なんとも言えぬ爽やかさがあった。その時は、相手チームの一糸乱れぬ応援にも驚嘆した。過去、違う高校で何度も応援に行ったが、今回のように決勝戦は、もちろんはじめて。
東大阪大学柏原高等学校が、舞洲球場で、大阪桐蔭高等学校を破って優勝。初めての甲子園出場を決めた。真夏のじりじりと肌を焼くような太陽の下、日頃、鍛えた技と力がぶつかりあう。互いに懸命に練習を重ね、今日を迎えた。はつらつとした青春は、一瞬のゲームで決まる。まさにそんな試合だった。9回裏一死満塁、デッドボールでサヨナラ押し出しの1点。こんなこともあるのかと思う劇的勝利であった。柏原高校が見事な粘りで5点差をひっくり返した。勝ったチームの選手全員が互いに抱きあい、飛び上がり、歓声を上げ、喜びの涙で顔が崩れていた。一方は、しゃがみ込み、四つん這いになり、悲しみ、悔しさの涙にむせぶ。そこには、両者ともに燃焼し尽くした青春がある。そして、互いに次の燃焼へと向かって行く。ことに痛恨の一球を投げた彼にとって、この経験は、その後の人生において必ずや大きなプラスをもたらすことだろう。
野球は球場という青空の下、衆人が見守るなかでの公正にして公平なスポーツ。勝ちと負けしかない世界での勝者と敗者の違い、その境界線は、一体どこでどのように誰が引くのか。
前日の準決勝で勝利し、主将で高校通算50本以上の本塁打を打っている柏原の石川慎選手は「決勝は甲子園に行きたいという思いの強い方が最後に勝つと思う」と語っていたが、この思いは大阪桐蔭だって同じはず。しかし、勝利の女神は、彼の思いに応えた。村上学園の東大阪大学柏原高等学校が、初めて勝ち取った甲子園出場。大阪で勝ち進むのは、ある意味、甲子園で勝つことよりも難しいと言われる。深紅の優勝旗を目指して、あらん限りの力を発揮してもらいたい。
かつて王選手は、“調子のいい時は、ピッチャーの投げたボールが止まって見えた”と確か語っていた記憶がある。今夏、全国の高校野球の選手の中から、将来、ボールが止まって見える者が出るかもしれない。
一回戦で敗退したチームを含め、野球に打ち込む一途な青春を讃えるとともに、一方では、彼らに野球ができる喜びをも噛みしめてもらいたい。そして、見る我々も、野球から何がしかの夢をもらった。
Jul 05, 2011
紫陽花
紫陽花が咲くのは6月から7月。色とりどりに咲き、梅雨を美しく彩る。季節を表す花は、いくつかある。梅、桜、菊などは、その典型であろう。しかし、紫陽花もその一つと言えよう。「紫陽花」は、あくまで紫陽花と書くからいいのであって、これを「あじさい」「アジサイ」では、やはり風情がないように思う。あじさいの花、アジサイの花と言ってもおかしくないが、紫陽花の花と言うと、くどい。そこに、漢字の妙がある。
桜には花見があって、人々は花を前にして、多人数で飲食をしたり歌を唄ったり、踊ったりと賑やかなもの。しかし、紫陽花にはそれがないというより、似合わない。静かに眺め、しとしとと雨が降っていると美しさは、さらに冴える。雨に濡れる紫陽花は、それだけで見る人を引きつけるのである。雨がよく似合う。ある意味、桜は騒がしさの中にあっても似合うが、紫陽花にはそれがない。あくまで、静かさが似合う庶民の花であり、時に気品を感じる。
しかも紫陽花は、それぞれ微妙に色が異なる。雨が降ると、その色は一層、目にしみる。それは、空から落ちて来る雨滴に、紫や青、時にピンクの、しかもそれぞれに微妙な濃淡がある色の違った絵具を入れてあるように。紫の絵具が入った雨滴が、白い花弁に落ちた所は、そのような色に滲んでいる。道を歩いていると、民家の前に咲いているのをよく見かける。小学生の頃、近所の家に遊びに行くと、裏庭に池があり、そこには大きな蛙がいて、池の周囲に、これも大きな紫陽花が咲いていたのを思い出す。
全ての花々は、自身、美しく、かつ少しでも長く咲き続けていたいと思っているはずである。紫陽花は、比較的長く、その美しさを我々に見せてくれているのではないだろうか。本学にある女子寮にも、紫、薄紫、ピンクが咲いている。美しさとともに、静かな風景画を見るようである。地元住民が苗を植えたのをきっかけに、人々の努力で咲く大輪の花は道を美しく飾り、所によっては“あじさい祭り”なるものが催され、地域の活性化にも貢献している。
もっとも花に見える紫や青の部分が、実際は萼<ガク>であり、本来の花は真花<マカ>といって、普段は萼に隠れているので目にする機会はそうないものだそうである。 土の酸度がひとつの要因となって花の色が変化し、アルカリ性で赤っぽく、酸性で青っぽくなるとのことで、まるでリトマス試験紙のようだ。植えられている土の性質によっても色が変わるらしい。でも、これでは夢がない。それよりも、空からさまざまな色のついた雨滴が落ちてきて、それが花の上にポタッと落ちてそれぞれ色が付く。その方が夢がある。
しかも、咲いたばかりのときから花の終わりまで、日の経過とともに微妙に色を変えながら咲き誇る。花の七変化であり、これが何とも言えぬ魅力でもあろう。
先日、知人から紫陽花を描いた絵を頂いた。まるで画用紙から浮き出るように紫陽花が静かにきれいに咲いている。そこには紫、濃紺、青、淡いピンク色と、空から雨滴が画用紙に落ちたように紫陽花が滲んでいる。その絵は精根こめて、画用紙に息を止めて描いたのであろうか、精彩かつ精細に描かれている。その静かな絵を見ると、花の美しさに、ふと落ち着くのである。
昨年の11月末、私が新任教員として赴任した学校の地歴部が同窓会を開いてくれた。4年程前に岸和田で初めて開いて以来である。出席者は、最初に担当した生徒から4、5歳年下まで14名。そのうち2名が旅行業務に携わっている関係からバスツアーとなった。堺駅にやって来たのは30人は乗れるバス。小さなバスと思っていたから驚いた。なかには卒業後、初めて見る顔も。45年振りである。大学で教鞭をとっている先輩の地理の先生を中心に、まさに地理、歴史の旅だった。卒業生の中には大学で教職、フランス語を教えている者が2人。草津、水生植物園、石部宿場の里と、改めて勉強し直した。
12月中旬の日曜日、最も親しかった卒業生のメンバーが難波に集合。このメンバーの中心はSであったが、彼は昨年4月に亡くなった。今回の参加者の年長者は、彼と同級であったM。集まることのできたのは7名。5名程は仕事や家庭の都合で急遽欠席となった。混雑する難波改札口に集合して新世界へ。今回の企画は中学校の校長をしているTと電気工事を仕事とするM。京都の病院に勤務する最年少のEは泊り明けで、眠いのを我慢しての参加。SとYは風雲急を告げる(?)大阪府庁と大阪府立高校に勤務、Mは家庭人。かつて一緒に旅行したり、我が家に泊りに来ていた連中である。
新世界は、旅行客などで活気づいていた。通天閣は35分待ちなので、その辺の散策へ。丁度、演劇がはねたところで、時代劇の扮装のままの俳優が客を劇場出口で見送っていた。慶沢園から茶臼山、一心寺へ。新世界へ戻り、夕食は串かつ。狭い2階へ上がって歓談。いつもならこの席には、必ずSがいた。皆が彼には一目置いていた。Mが黙祷しようかと言ったが、狭い座敷で、他の客もいるのでこれは遠慮。しかし、皆の思いは一緒。彼らは、S先輩が居たらなと思っている。私も、ここにSが居たらなと思ってしまう。
日が暮れたので、客も減ったであろう通天閣に登った。でもこの時間でも結構、客は居た。かつて来た時と、かなり変わっていた。戦前の通天閣付近のビデオやジオラマで大阪の街を再現している。驚いたのは通天閣から難波と天王寺2方向へ、ノンストップの無料マイクロバスが出ていることだった。通天閣の前に人が並んでいるので、なにかと思うと、バスを待っている人であった。我々も、難波までそのバスに乗車。車内には福岡からやって来た2人の若い女の子がいた。21時半頃の新幹線に乗って帰るとのこと。“たこ焼き”を食べる所を聞かれたので、その場所を教えた。
クリスマスイブの日、60歳を迎える、迎えた卒業生4人との宴。これも、毎年1回誘ってくれる。女性4人で大いに賑やか。いつも某ホテルのロビーで待ち合わせての会食。話が弾むこと弾むこと。1年1回ゆえ、溜まっているものを吐き出す感じ。しかし、楽しい。4人は同級生で、この春、幼稚園園長で定年となる女性に、主婦が3人。発展途上国を中心に海外旅行にしばしば行っている者がいて、皆が“羨ましい身分やなあ”と。また、今も社会人バレーを続けている者もいるなど感心する。高校生の時は、バレーボールで鍛えていた連中。当時は、屋外が普通であった。泥だらけになって、ボールを追っていた彼女たちである。
この2ヶ月に、3回の宴。最近では、いずれも間もなく高齢者ゆえ、互いに健康には気をつけようと言い合って別れる。でも、最も気をつけなければならないのは私である。いずれは杖をついて出かけるとしよう。