「道草」は、違った光景を見る

 子どもの頃、「道草をしたらあかんぞ」「道草、喰ったらあかんぞ」などと言われたものだ。学校から家まで寄り道をせずに、まっすぐ帰るようにと、親や先生から言われた。もっとも今の子にこれを言うと、「道草って、どんな草?」「そんな草、よう食べんわ」と言うかもしれないが。

 しかし、寄り道することによって、道の味を知り、面白い、新しい発見をする。人生も一緒であろう。学生時代に人生における道草、大きな寄り道、回り道をした者は、長い人生で見た場合、決して不利ではない。むしろ、その後の人生の大きな財産となることが多い。順調に歩んでいたら、もっといい学校に行っていたかもしれない。しかし、人生のある時期、この道草を食った期間が、その人にとって極めて大きな役割を果たすことにもなる。それは、決して無駄にはならない。さまざまな苦難の経験・体験が人生そのものへの姿勢・態度をかたちづくっていくなど、その人の将来にとって大きな貯金となり、そして人は、この時の貯金を元手に生きていく。

 速度も遅く、途中でたびたび停車する鈍行列車は、まどろっこしくてイライラする。しかし、その窓から十分に景色を見ることができ、特急列車、急行列車では見ることができなかったものが見え、気づかなかったものに気づく。躓きもなく順調に近道ばかり歩いていることは、素晴らしい。そこには苦しみや悩みが存在しない。傍から見て幸せ者である。しかし、それは節のない竹のようなもの。一旦、事あるときは、それが大きな敵になることを忘れてはならない。しかも近道は、一生続くものではない。生涯、なんの壁にもぶつからないで一生を終える人は、まずいないだろう。もしそういう人がいるなら、それは宝籤に当たるような希有な人であり、快適な新幹線に乗っているがために大切のものを見落とすことにもなる。

 人生の寄り道、回り道には、違った風景や風を、そして季節を感じる。この風を受け、違った風景を見て、人は成長していく。かくて窓からの風景をしっかり見つめ、耐える力やこまやかな配慮もできる人をつくっていく。

 人は暖かな順境にいるよりも、時に苦しみ悩み、追い詰められると竜が玉を吐くほどではないが、それなりのものを生み出す。ただし、困難に耐えたからといって、人はよくなるとは限らない。恵まれぬ境遇から才能と努力で地位を得た人の中には、弱者を深く思いやる人がいるかと思うと、自分並みの努力をしないような怠惰が許せないということから他人に厳しい、冷たい人もいる。川が低きに流れると同様、油断していると低きに流れる人もいる。人は誰でも暮らしは低きから高きを求めるは当然としても、心が高きから低きに流れてはならないだろう。ここは、気をつけなければならない。ことに学生時代、若いときというのは「今」しかない。だからといって羽を伸ばしすぎるととんでもない事態を招きかねない。自分をうまくコントロールできなければ、社会から取り残される。社会に相手にされない。それより、自分自身が伸びない。4月から社会人となる若者のしっかりした生き方、その精進に期待しよう。

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万能薬の登場

 外国のテレビドラマや映画を見ていると、彼らがよくコーヒーを飲んでいるシーンを見かける。しかも、そのカップはただものではない。大きいのである。我々のコーヒーカップの3倍ぐらいの大きさではないだろうか。あのカップで、一日に何倍も飲む。よく体を壊さないものだ。ただ、彼らの飲むコーヒーは、日本のように濃くないらしい。でも、あれだけの量を飲めば、お腹がだぶだぶにならないだろうかと思ってしまう。

 米国でホームスティをしていた人が、向こうの人の食べるハンバーガーやホットドッグ、ステーキ、ソフトクリームなどは、どでかくて、我々が食べる大きさの何倍もあると語っていた。

 私はコーヒーが好きだから、控えてはいるものの一日に何杯か飲む。あまり飲むと体に悪いかなと思ったりする。以前、一日に4杯以上飲む55歳未満の人は、飲まない人にくらべて死亡率が高いと、米国の研究チームが発表していた。しかし、確か7年程前、コーヒーを毎日飲む人は肝臓癌にかかりにくいと厚労省の研究班が発表していたはずだ。飲まない人に比べて発症率は約半分だとのことなので安心した。しかし、これはあくまで肝臓に対してであって、肝臓には良くても、胃の方には大丈夫かと考えてしまう。一つの発表で、一喜一憂したり、鵜呑みにしたりすると、別な危険がやって来る。ついでに、米国ジョンズ・ホプキンス大学の研究でコーヒーに含まれるカフェインは、眠気を覚ます作用だけでなく、学習後に摂取すると記憶力を高める働きもあるようなことを発表していた。それにしても、糖の摂りすぎはよくないと甘い物を控え、血圧によくないからと塩を控え、痛風になるからと肉やレバーなどを遠ざけたり、酒もよくないから等々、何かと大変である。人によっては何のために生きてるんだとガックリしたり、開き直ったりするだろう。そして、薬局では健康のための薬、栄養剤が売られている。ことに最近、テレビコマーシャルなどで頻繁に流されている。

 ところで、これだけ医学の進んだ今日、何をいっぱい食べても、どれだけ飲んでも、大丈夫という薬が出てきてもよさそうなものだが、そうはいかないのだろうか。饅頭を食べすぎて糖分を摂りすぎたと思ったら、除糖剤を飲めば安心というような。砂糖、塩、酒等々の摂り過ぎに、一錠飲めばその害となるものが殆ど吸収されないような薬。それを食前か食後に飲むと、すべて解決というように。そんなものがあれば、さしずめ私なら饅頭をいっぱい食べるだろう。ついでに、虫歯や歯槽膿漏にならない予防注射など、できないのが不思議な気がしないでもない。そうなれば入れ歯も不要だし、テレビでよくコマーシャルしている入れ歯洗浄剤もいらなくなってしまう。

 万能薬が出てきたら、食べる方も安心である。その薬を一日1カプセル飲めば、高コレステロール、肥満、アルコール依存、不眠、頭痛、老化、高血圧、食べ過ぎ、運動不足、ついでに日焼け等々、すべての症状を防いだり、治ってしまうというような。営業妨害だと、お医者さんが怒ってくるかも。いや、その前に、人間が堕落してしまう危険の方が大きいだろう。

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短期大学部50周年

 今年、平成27(2015)年は本学短期大学部が開学して丁度50年を迎える記念の年である。本学は昭和40(1965)年4月、布施女子短期大学家政科を設置したのに始まり、翌年に保育科、そして昭和42(1967)年に東大阪短期大学と名称変更し、平成15(2003)年東大阪大学こども学部こども学科設置に伴い、東大阪大学短期大学部と名称変更し、健康栄養学科、幼児教育学科の2学科で現在に至っている。

 正門を入った所には、昨年12月12日の夜から50周年記念のライトアップがされている。夜の冷え込みが急に厳しくなり、寒さが身に凍みるその日は、大学の学生会・短期大学部の学友会の学生達が中心になってクリスマスパーティを開催。大学・短大、そして学年を跨いだコミュニケーションを図って、縦の繋がり、横の繋がりを作ることを目的とするXmas partyである。そして、短期大学部が50周年を迎えるのに合わせて、教職員が50周年を祝うライトアップを計画。学生達のXmas party、そして短期大学部50周年の記念イベントの手作りのライトアップがコラボレーションした素晴らしい企画であった。かなり早くから準備し、色や種類を増やしたり、空のペットボトルを巧みに利用したり、デザインを考えたりと、そのレイアウトに心血を注いでいた。かくて、その日を迎えた。

 その点灯が、12日、午後6時に行われた。多くの学生達と教職員が、日の暮れたキャンパスに集まり、こども学科の学生T君の音頭でカウントダウンがなされ、一斉にライトが点いた。大きな拍手と、写真撮影。ノーベル賞で注目のLEDである。その後、9号館のラウンジで、学生会・学友会が準備してくれた食事をしながら、学生達、そして教職員がワイワイガヤガヤと楽しいXmas party。終わったのは、日もとっぷり暮れた午後の9時を回っていた。そして、その日以来、毎日、夕方から華やかな光のイルミネーションが輝き、門を入った所の花壇を中心に、辺り一帯を美しく彩っている。”50th Junior College Anniversary2015”の金色の文字、そして青、緑、赤のイルミネーションが点滅。まさに、燦然と輝く光のオブジェ、幻想的な空間、光の饗宴と言うべきか。メルヘンの世界に迷い込んだように美しく、かつ幻想的で夢とロマンに浸ることができる。

 一方、12月18日(木)には府立中央図書館ライティホールにおいて、パーカッション アンサンブルコンサートが開かれ、ゼミの学生たちは日頃の練習成果を発表していた。そして、この18日(日)、こども応援ひろば2014パートⅡが開催される。淀川キリスト病院、ホスピス・こどもホスピス病院院長の鍋谷まこと先生を迎えての講演「かけがえのない命を育む」である。さらに24日(土)には、短期大学部健康栄養学科・幼児教育学科合同の展示会・発表会。学生たちによる手作りの発表会で、一年間の授業の成果を見てもらうものである。この行事に備えて昨年末から、そして今年に入って、まさに学生たちは懸命に取り組んでいる。来月6日、7日にはこども学科学生の卒業論文発表会が行われ、日頃の研究成果を発表することになっている。

 底冷えのする昨年末からの日々だが、こうした学生たちの弛まぬ活動、さらに日の暮れたキャンパスのイルミネーションを見ると、熱意となんとも言えぬ温かさを感じるのである。短期大学部50周年の記念イベントのライトアップは、本学に通っているすべての学生達の充実した学生生活を讃え、そしてその将来を祈念するものである。今年の学生達の大いなる活躍を期待する。

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七つの子

 朝、いつものように鳥の啼き声が聞こえてくる。我が家の近くの神社には、以前は鳩が境内の木々や社殿の屋根にたくさん止まっていた。ちょっとしたハト公害の様相すらあった。ところが、いつの間にか殆ど見かけなくなり、代わって烏が増えた。カラスに追いやられたのか、雀さえ減ったようである。カラスが数多く棲み、飛び交い、よく啼いているが、美しい光景でもなく美しい声でもない。5月頃に、鶯の声が聞こえる時があるが、えらい違いである。しかも、カラスが群れをなしている時は、どことなく不気味でもある。

 また、私が初めて勤務した府立高校には、鳩がいっぱい居た。そのせいなのか、或いは校章が鳩をもじっているせいか、その学校を近隣の人達はハト高と呼んでいた。今もそうである。そして転勤を重ねて21年ぶりにその高校へ戻ってきたら、鳩は全くおらず、居るのはカラスであった。ここも鳩が追いやられたのだろうか。

 ところで、野口雨情作詞、本居長世作曲の歌に有名な「七つの子」<大正10年>がある。“烏 なぜ啼くの 烏は山に 可愛七つの 子があるからよ…”。ちょっと待てよ、カラスの子って、そんなに可愛いかなと思ってしまった。カラス、真っ黒で大きな体、時に不気味な声で啼く。鳥啼山更幽(鳥啼いて山さらに幽なり)とはほど遠い。家の前に出したごみ袋を破って散らかす。ヒチコックの映画「鳥」まで思い浮かぶ。でも、カラスであっても、子どもはやはりは可愛いか。

 室町期の歌謡集「閑吟集」には「烏だに 憂世(うきよ)厭(いと)ひて 墨染めに染めたるや 身を墨染めに染めたり」というのがある。烏の体を僧衣に、つまり出家と見立て、それに自分の心境を託していることから、烏は今日ほど嫌われていなかったのだろうか。また、唐の詩人、白居易には「慈烏夜啼」という詩がある。親鳥に餌を運び、育ててもらった恩返しをするということで、親孝行のお手本でもあったようだ。 

 さて、この「七つの子」であるが、私は歌詞にある“可愛七つの子”は山に七羽の子がいると解釈していたら、歌のタイトル「七つの子」の“七”を巡っては、かつて“七羽”か“七歳”かという議論があったとのこと。山に可愛い七羽の子があるとばかり思っていたら、山に7歳の子があるからとは???

 通常、カラスは卵を7個も産まず、3~5個とのこと。それなら7羽は無理か。一方、カラスは7~8年生きるそうである。これだと7歳のカラスは高齢者になってしまい「子」とは言い難い。それなら“七は?”。このため、これは人間の子を指しているというのである。かつて乳幼児死亡率が高く、子どもの命はいともはかない存在であった。「7歳までは神のうち」という言葉があるほど、生存が不確実な時代。その最も重要なのが数え年7歳<満5歳半>であり、死亡する危険が大きい5年をすぎた段階である。このことが七五三のお参りに繋がっている。そこで7歳というのが大きな節目だったことから、“七”が象徴的に用いられたのではないかと。

 さて、孫である野口不二子さんの『野口雨情伝』には、次のような一文がある。

 “明治45年………雨情は、林業に踏み出します。山小屋の周辺にはカラスが無数に飛んでいました。一羽のはぐれカラスが飛んでくると、雨情は息子の雅夫に「あのカラスはお父さんのカラスを捜しているのか、お母さんのカラスを捜しているのか、どちらだと思う」と聞きました。……。「カラスが『カアーカアー』と啼くのは『かわいいかわいい』と啼いているのだよ。カラスの別れも人間の別れも同根だよ。哀しむのではないよ」。……。雅夫が数え年7歳の時でした。やがて本当に父との別れが訪れます。一緒に植えた杉の子の生長を、雅夫は何回も見にいったといいます。童謡「七つの子」の原風景は、7歳だった息子との思い出がベースなっているのです”と。思わず“七”をめぐって考え込んだ。

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学園祭 

2014学園祭

 秋晴れの下、本学の学園祭である翔愛祭が開催された。久方ぶりの好天気。去年は晴れていたが、午後から曇り風も吹いて寒かった。その前の4年間は雨にたたられた。今年は一転、暑いくらいの晴天。

 大学の学生会、短期大学の学友会が中心に、翔愛祭(学園祭)実行委員会を結成し、各学科のクラスやゼミ生たちは、かなり前から、出し物を企画立案し準備していたもので、ことに学園祭の2~3日前になると、遅くまで準備に追われていた。

 翔愛祭実行委員会では、こども学部開設10周年を経た今年、2014年度、何か新しいことを始めたいとの思いから、New Generation~一歩が自分を変える~をテーマにしての開催。これは、自分たちに向けてのメッセージであり、また地元をはじめとして多くの人たちにこの思いが伝わればとの心をこめての学園祭。

 学生たちのバンド演奏やダンス。9号館1階のエントランスでは、学生と附属幼稚園の園児たちによるアンサンブルコンサートが催され、多くの親子がやってきて大賑わい。

 大学生がつくる“恐怖の館”、短大生のつくる“おばけ屋敷”、“巨大迷路”は、数日前から日が暮れても準備に没頭していただけあって、いつものことながら人気があり、親子が列をなしていた。ゼミやクラスの出店も大繁盛。また例年、地元の東大阪ブランド・地域企業も参加。“針金アート”では子どもたちが熱心に取り組んでいた。また、米糠等を使った天然洗剤作りでは、あらためて環境問題について考えさせられたと参加者の人たちも大喜び。後援会、そして大学同窓会の翔友会、短大同窓会の桃愛会も参加。ここには多くの人々の笑顔と繋がりがある。

 アジアこども学科では、『東大阪町おこしのカレーパン』というテーマでその歴史とビジネスモデルをレポートしていた。『コラージュで遊ぼう!!』も、例年にない賑わい。スタンプラリーを持った子どもたちが、さまざまな所を回っていた。

 私が担任していた平成19年に卒業したD君も来ていて私の部屋に寄ってくれた。元気に勤務しているとのこと。 

 正面舞台でのフィナーレは日も暮れた午後7時。前日の前夜祭では、日差しの強いなか、グランドで、リレーや借り物競走に先生も学生も我を忘れて走り、体育館ではダンスや軽音楽演奏に興じていた。この2日間、まさに手作りの活気溢れる祭典で、学生たちは青春を謳歌しての存分の活躍。夜遅くから雨が降り出し、雷も鳴った。きわめてラッキー。

 あくる月曜日は代休。その朝、実行委員のメンバー30人程が、教職員2人と後片付けに精を出していた。テントを畳んだり、ゴミを集めたりと懸命な活動。夜半の雨のため、重くなったテントだけにしんどそうだった。昨日の彼らは、表舞台での大活躍、今日は裏方としての奮闘。かくて次の日からの授業は順調に行われる。

 この学園祭を機に、サブタイトルにあるように学生達が、新しい一歩を踏み出し、自分を大きく変え、脱皮、飛躍することを期待しよう。

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年一度の集まり

 毎年6月の某日、母校である大阪府立O高校の同窓会を開く。といっても参加者は7人。かれこれ40年程は続いている。いつ頃からかはっきりとは覚えていないが、高校で同じクラスだったSと2人で時々、会っていたのが始まりではないだろうか。その後、間もなく3人、4人、そして7人になって30余年になる。ここ10年近くは、中学校も一緒だったWの世話で集まる場所も決まっている。皆それぞれの道を歩んできて、現役を引退して、別の所で働いている者もいれば、完全リタイアも居る。

 クラスで成績が一番であったTは、大手製薬会社を退職後、キャンピングカーで奥さんと二人で北海道をはじめ色々な所へでかけ、二人で趣味の写真撮影をしている。この日も、賞を取った風景写真を見せてくれた。ちょっと素人では撮れそうもない写真であった。夫婦それぞれが賞を取っており、私の目から見て、どうも奥さんの方が上ではないかと思う。このTは体が弱いということで、高校時代には、よく体育の授業を見学していた。体型は、今もまったく変わらずである。皆から、高校の時は、“本当に病気だったんか”、“さぼってたんと違うんか”と、今や大いに疑われている。7人の中で、最も長生きするのは、このTかもしれないと、他の6人は予想している。高校3年の時、このTと、医大で教鞭を取っていたW、大手英会話学校に勤務していたS、そして私が同じクラスであり、成績はTを除いて3人は似たり寄ったりでクラスの中程だったと思う。なかでもSとW、そして私は、しばしば一緒に下校した。ことに土曜日は、電車の本数も少なく、学校から国鉄(現・JR)駅まで歩けば20分かかるところを走った。畑の畔道、鶏舎の横、路地のような細い道を。あとの3人は、クラスは違うが金融機関に勤務していた者、高校教員を定年退職後は大学で英語を教えていた者、今も高校で数学を教えている者である。金融機関に勤務していた彼とは、小学校、中学校も一緒である。

 私とSは、学部は違ったが大学も一緒で、よく2人で下校した。快速電車に乗らずに、2~3分遅れで北陸からやって来る普通列車に乗っていた。一両に数人しか乗っていない、まさにガラ空きであった。ともにこれまで70年余り、色々な寄り道、回り道をした。そしてSとは、ひょんなことから、今も週1回は会う。

 さて、7人のうち2人は、いわゆるメタボであり、皆から最も危険な二人と囁かれている。しかし、こればかりは予想がつかない。男7人の七夕(6月であるが)が、いつまで数を減らすことなく年に一度の逢瀬を楽しみたいものである。しかし、“順番に減っていっても、最後は俺が一人で宴をするぞ”と豪語している者もいる。

 しかしいずれは、いわゆる三途の川を渡って、此岸から彼岸に渡る。向こう岸は、どんな世界なのだろう。江戸時代に斬首された男が謳ったものに、“さきの世にはいかなる美女がいるかして死に行く人の帰る人なし”というのがある。また、シェークスピアはハムレットに「死ぬこと眠ること…<中略>…その境を越えて一人も旅人が帰って来ない未発見の国」と言わせている。しかし、まだ訪問したくはないと思っているが。最後に残るのは誰なのか。予想通りにTかも。

 淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏は“人は生きて来たように死んでいく”と語っている。“しっかり生きた人はしっかり死んでいく。不平不満を言いながら生きてきた人は、不平不満を言いながら死んでいく。周りに感謝しながら生きてきた人は感謝しながら死んでいく。これまでの生きざまが死にざまに反映する”と。死んでからまで、後ろ指を指されないようにしよう。

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虫の大きさ

 夏の蝉に代わって、9月に入ると虫の声が聞こえてくる。まさに秋が来たという感じである。子どもの頃に色々な虫を獲ったものである。蝶々、トンボ、セミ、ブンブン、バッタ。道端で、野原で。しかし、よく考えると、神はこういった虫に、よくぞ適度な大きさを与えてくれたものだと思う。もし、蝶が羽を広げたら、30cmもあったらどうだろう。そんな大きさの蝶、トンボやバッタが野原を飛んでいる。これでは網で子どもが追いかけるどころの騒ぎではない。恐怖の対象である。我が家の近くの神社では、夏になると蝉の大合唱。地上に出るや、命の限り鳴き叫び、瞬く間の1週間程で地に落ちて死骸をさらす。この蝉が20㎝程あったら、いや10㎝でも不気味である。網で獲ってかごに入れるどころではない。当然、その鳴き声も大きく、大音響だろう。辺り一帯が大変な騒音で、人は住めないのではないだろうか。

 もし、人から嫌われるゴキブリは、あの大きさでも皆から嫌われ、時に大騒ぎされる。これが15cm、30cmを想像すれば驚愕である。恐怖そのものであろう。そんなものが道を這っていたら、大きな音をさせて家の中に登場したら、想像するだけでも恐ろしい。玄関の戸締りをきちんとした上で、そこには大きな缶の殺虫剤を用意し、即座にホースで撃退しなければならない。こういったことを考えると、誰がその大きさを決めたのか知らないが、自然や神に感謝することだろう、と考えていたら、次の文に出会って愕然とした。 

 エッセイストの木村治美さんが、“何年か前、フランスの田舎をロマンチックな気分で散歩していたら、巨大なナメクジが濡れた道を横切っているのに遭遇。まるまると太く、長さも10センチはあったろうか。外国の昆虫類は、たいてい日本の同種のものよりどでかくて、度肝を抜かれる”と書いていたからだ。神の力は外国には通じないのか。フランスのナメクジは、神を冒涜するものなのだろうか。なにはともかく、外来魚を駆除などと淀川や琵琶湖など各地で取り組まれているが、いつの日か在来虫?を守ろうという事態にならいことを祈る。ところが、この外来種のナメクジ、すでに我が国に上陸して繁殖を始めているそうだ。体長は10センチを超え、15センチのものもいて、しかも豹柄というから迫力満点。さすがの大阪のおばちゃんもびっくり。茨城、福島、長野で確認されているとのこと。お会いしたくないものだ。

 さて、虫という漢字を使った字を拾い出してみると、蛍、虹、蝶、蜻蛉(とんぼ)、蛤ぐらいは、お近づきになりたい。蝉、蟻は微妙なところか。しかし、大半は敬遠したい。蛇、蚊、虻(あぶ)、蛆、蝿、蛭(ひる)、蝮(まむし)、蛾、蚤、虱、蠍(さそり)、蜥蜴(とかげ)、蟷螂(かまきり)、蝙蝠(こうもり)、蛞蝓(なめくじ)、蜘蛛(くも)等々。なぜだろう。字そのものが、どうも好きになれない。私自身が、その虫が嫌だから、そう思うのだろうか。

 ところで今日、蝿を殆ど見なくなった。それだけ清潔になったということだろう。今の子どもたちは、「ハエって、何?」と言うかもしれない。夏休みの宿題の昆虫採集に、間違って蝿を加えるかも分からない。

 最後に、『日本書紀』にこんなことが書かれている。「夏5月に、蠅有りて聚集(あつま)る。其の凝り累(かさな)ること十丈ばかり。虚(おほぞら)に浮びて信濃坂を越ゆ。」と。つまり、“推古35(627)年5月、高さ十丈(約30m)程の群れをつくり、信濃の峠を越えて行った”と。そして、「鳴る音雷(いかずち)の如し。」と。ホントかいな。

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星に願いを

 先月は七夕。七夕の頃になると、あちらこちらの幼稚園、小学校をはじめとして、笹の飾り付けが行われる。願いを書いた短冊を笹に結び付けるなど、夢がある。我が国では、七夕は奈良・平安の貴族に星の恋の物語としてもてはやされ、全国に広まったそうだ。江戸時代には家ごとに笹飾りを立てお供えを並べて、家族で星を眺めるという庶民の楽しい年中行事だったらしい。東大阪大学こども研究センターにも、七夕が飾られていた。研究センターにやってくる地元の親子が、保育士や学生たちと作った七夕の飾りが。

 幼い頃、誰からともなく聞いていた織姫と彦星にまつわる天の川を挟んでの悲恋の物語である。ところで、殆どの人は、この二人を恋人と考えているであろう。実は、織姫と彦星は夫婦なのである。二人は働き者だったのだが、結婚してからは、機織りと牛飼いの仕事を怠けるようになり、天帝の怒りを買って引き離された。年に一度しか許されない星合の物語が、恋の成就を阻まれ、一緒になれない二人と言うイメージを定着させたのであろう。いずれにしても七夕には、夢がある。

 星という字は、“生まれた日”と書く。考えれば、星という字そのものにロマンを感じる。子どもの頃に天の川なるものを聞いていたが、大阪では見ることはなかった。本当にそんな大きな星の帯が空にあるのだろうかと思っていた。小学生の時、夏休みに兵庫県の親戚の家に泊った際、真っ暗の空に天の川が横たわっている光景を眺めて、本当にあるんだと、その美しさに見とれたのを覚えている。日本に古来から、庶民の間に根付いている七夕の物語、そして天の川を眺めれば、星空に美しい物語が生まれる。誰かの文に“星座は、漆黒のカンパスに描き出された夢とロマンの世界である”というのがあった。

 ところで、夏は一年中で一番たくさんの流れ星が飛ぶ季節である。7月20日頃から8月20日頃にかけて出現し、なかでも8月13日前後をピークに現れるペルセウス座流星群がピュッピュッと星空のあちこちで飛ぶそうである。流れ星が消えないうちに願い事を三度唱えると願いが叶うとの言い伝えもあるとのこと。夏こそ“星に願いを”の絶好のチャンスと言えよう。

 かなり以前だが、星がもっとくっきり見えるようにと、大阪ではネオンをはじめとして無用な電気を消そうという運動があったように思うが、いつのまにか言わなくなってしまった。大阪では、空を見上げても見える星の数は少なく、もちろん天の川は存在していても、肉眼で見ることができない。神様が、大阪に住む我々には、夢とロマンを抱くことを許さないのだろうか。そんなことはないだろう。

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初夏のキャンパス

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 住吉大社の境内には、比較的大きな田がある。近隣の人々は“御田<おんだ>”と呼んでいる。5月初旬には、御田一面にレンゲが咲いていた。蓮華の花の美しさと同時に、どこか極楽の雲の上のような景色であった。5月5日のこどもの日には、あいにく雨のため開放された御田に入っていた親子は少なかったが、例年は多くの家族連れがレンゲ摘みを楽しみ、子どもたちは、泥だらけになって遊ぶのである。

 5月末、耕運機が入って、畦が作られた。そして6月上旬に水が張られると、突如として、その日の夜から蛙の鳴き声が聞こえてくる。蛙にしたら、この日を待っていたというところか。毎年、これが不思議である。今年も、8日に水が入れられたら、その夜から歓喜の合唱が始まった。かなり遅くまで蛙の声が聞こえ、深夜になると疲れてしまうのか眠ってしまう。その時、いつも私は季節を感じる。

 我が東大阪大学・東大阪大学短期大学部でも同様である。5月末から6月になると、どこからともなくカルガモがやって来て、キャンパスの小さな池で遊び、そして卵を産んで温める。今年も先月、やって来た。その小さな池の真ん中には、ちょっとした小島があり、そこで卵を産み温めるのである。毎年この季節になるとやって来るとはいうものの、顔が一緒なので、いつも来ているお馴染みさんなのかどうか分からない。それとも毎回、違う鳥が仲間からあそこは産み易いと教えてもらってきているのだろうか。

 学生も我々も、いつ孵るのかと心待ちしていた6月中旬、9羽の子どもが誕生。親の後をついて池やその周辺を、ちょこちょこと泳ぎ、潜水を披露したり、時に陸に上がって走り回っていた。学生はもちろんのこと、先生に引率された東大阪大学附属幼稚園の園児たちも大喜び。親鳥の傍らを素早い動きで付いて廻るヒナを見て「カワイイ、カワイイ」と大騒ぎしていた。そしていつもの如く我々の知らぬ間に、親に連れられ、どこかへ引越した。ところが、今年は思わぬ異変があった。親は、うっかり子どもの数をかぞえなかったのか、なんと1羽だけ取り残されたのである。このままでは子ガモは生きていけない。子ガモが多くいる所があり、そこなら大丈夫と聞いた職員の一人が、朝の5時に起きて子ガモを保護して、車でそこへ運んだとのこと。

 一方、学内にある女子寮の前には新入生が植えた赤、白、紫、えんじ色など鮮やかな花が、音楽棟(ピアノ棟)の前には授業の一環で上級生が植えたサルビア、マリーゴールドが美しく咲いている。夕方、ビニール袋を持った学生会・学友会の学生が、自主的にキャンパスを清掃してくれていた。カルガモの赤ちゃん、学生の植えた花、そして清掃、美しさとともに、喜びと夢を与えてくれる。

 そんなある日、いつもの自由な服装の彼ら全員がスーツ姿、いわゆるリクルートスタイルであった。その日は、キャリア教育の一環である外部講師によるマナー講座。実習に行った時、ボランテイアに参加した時をはじめとして、さまざまな場における礼儀、マナー、さらには将来の社会人としての在り方の指導が行われていた。これまた、彼らの夢を実現するためである。

 

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宝塚歌劇100年 

 先般、宝塚歌劇団100周年が華やかに開催された。昨年、タカラジェンヌを育てる宝塚音楽学校は創立100年を迎え、宝塚大劇場で記念式典が開催された。多数の歴代スターが参列と報じていた。なんといっても、こんなに華やかな同窓会はないだろう。

 宝塚新温泉の呼び物にと集めた15歳以下の少女たちの「宝塚唱歌隊」。これがタカラジェンヌの唯一の養成機関である宝塚音楽学校のはじまりである。今年の元旦の新聞には、“‘小さな湯の町’のパラダイス劇場で大正3(1914)年に、わずか16人の少女たちから始まった歌劇。昭和初期に日本で初めてレビューを上演して飛躍し、戦争や阪神大震災なども乗り切って、華麗な‘夢の花園’を築き上げた。100年後の今では、未婚の女性ばかり約400人もの大集団が、日本舞踊からレビュー、ミュージカルまでこなす、世界でも類をみない劇団として大きく成長”と報じていた。当時、この16人の少女による音楽劇は、小規模ながら家族揃って楽しめる新機軸として人気を博したようである。

 さて、宝塚音楽学校と聞けば、“すみれの花咲くころ はじめて君を知りぬ ……すみれの花咲くころ”という歌は、殆どの人が知っている。出だしと、その旋律は。そして、テレビで流される音楽学校の合格発表のシーン。校訓の<清く、正しく、美しく>をモットーに、規律を重んじ、言葉遣いや立ち居振る舞いの指導も徹底。

 大劇場創立者・小林一三氏は、1914年4月、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させていった。

 氏は電鉄開業に際し、「奇麗で早うて、ガラアキで眺めの素敵によい涼しい電車」という人々をアッとさせるような斬新な広告を掲げた。ガラアキとは何事だとの批判もあったが、これがまた当たったのである。

 この劇団の育成に情熱を注いだ氏は、“箕面有馬電軌(今日の阪急電車)の商策という以上に、理想の女神像にたいする献身であったかもわからない。”と、作家・小島直記氏は40余年前の著書『青雲~小林一三の青年時代~』に書いている。この本、20歳後半に読んだことがあり、宝塚100周年ということで、本棚の隅から取り出して再読してみた。

 さて、なんといっても、この宝塚人気を決定づけたものはフランス革命を背景に描く池田理代子さんの劇画「ベルサイユのバラ」であろう。初演は40年程前になる。空前の大ヒットとなり、“ベルばらブーム”は社会現象化した。

 ところで、永六輔さんの『芸人 その世界』<s44年>には、こんな事が書いてある。“宝塚温泉の大浴場が出来たものの混浴はいけないということになって使い道に困った。仕方がないので浴場にフタをして、その上を仮の舞台にし、そこで娘達に踊りをさせて浴客に無料で観せた。開演を知らせるのは豆腐屋のラッパだった。大正3年、宝塚少女歌劇団の第一回公演である”と。

 今年は大きな節目である100年。これだけ華麗で多くの人を引き付ける劇団は、世界にもないのではないか。それだけに、その修業、稽古は想像できる。これまでの良き伝統の上に、新しい伝統を築きながら200年に向かっての新しい歴史の出発である。

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